聖エリザベートとバラの奇跡|マールブルクの聖エリザベート教会

マールブルク

マールブルクの旧市街への入り口に立つ聖エリザベート教会は、ドイツで最も古いゴシック様式のホール教会だ。1235年から83年の間に、聖エリザベートが眠る墓標の上に建設された。

聖エリザベート教会

この教会は、聖エリザベートの墓を訪れようとする人々にとっての巡礼教会であると同時に、またヘッセン方伯の墓所であり、またドイツ騎士団にとっても重要な教会であった。現在でも、教会には毎年1万人以上の人々が訪問するという。

1207年、エリザベートは、アールパード朝の王アンドラーシュ2世(Andreas II.)とゲルトルート・フォン・アンデクス・メラニエン家(Gertrud von Andechs-Meranien )の娘としてハンガリーのシャーロシュパタク城(Burg Saros-Patak)で生まれている。


わずか4歳のときに、テューリンゲン伯の王位継承者ヘルマン・フォン・テューリンゲン(Hermann von Thüringen)のもとに引っ越している。しかし、二人の結婚は当初予定されたようには進まなかった。1213年、エリザベートの母親であるゲルトルートが、政略により殺害されてしまう。これは、エリザベートとの結婚で約束されていた持参金の支払いが不確実になったことを意味していた。そうなると急にテューリンゲンでのエリザベートの立場も低下したのだった。母の死から2年後、こともあろうに、エリザベートの婚約者ヘルマンが亡くなってしまう。その為、「役に立たなくなった花嫁はとっとと送り返すべき」という意見が宮廷内でもささやかれるようになったのだった。

しかし、亡くなったヘルマンの弟、ルートヴィヒはエリザベートに対する愛情を育んでいた。テューリンゲン方伯の継承者となったルートヴィヒは、1221年、14歳のエリザベートとアイゼナッハで結婚している。当時としては非常に珍しい恋愛結婚であり、二人の間には3人の子供が生まれている。後に非常に狡猾な権力者という評価を与えられるルートヴィヒだが、エリザベートの慈善事業を支持していた。1223年、ふたりはゴータに病院を設立している。

彼女は城での何不自由ない暮らしを送っていたが、貧困に苦しむ庶民との間に大きな疑問を感じていた。これはカトリックであった彼女の宗教観とは相いれないものであった。彼女の信仰心、そして神と隣人への愛は、貧しい人、病人、ハンセン病患者、孤児の世話へと彼女を動かしたのだった。中世では、貧しい者に施しを与えることは、王族・貴族の伝統的な仕事のひとつとされていたが、エリザベートの場合は、自身の裕福な環境から施しを与えるだけに留まらなかった。自らハンセン病患者の子供の世話をしたり、葬儀のために亡くなった人の体を洗ったりすることも厭わなかったという。

彼女は質素な服を身にまとい、教会の礼拝に参加した。また断食を行い、贖罪の儀式も行った。しかし、彼女のこういった行為は宮廷ではよく思わないものも多くいたため、内緒で行われたのだった。

ある日、エリザベートは、いつものように貧しい人々に食事を寄付しようと、パンがいっぱい入った籠をもって、町へと出て行った。パンが入った籠には誰にも見られぬよいうに布が掛けてあった。城からでたところで、偶然、エリザベートと出くわした夫のルートヴィッヒは、妻に籠の中身を訪ねたのだった。エリザベートが籠の中身がバラであることを告げると、夫のルートヴィヒは、籠に掛けてあった布を取り去ったのだった。すると、パンが入っているはずの籠には、美しいバラがいっぱいに入っていたという。この逸話は「バラの奇跡」と呼ばれ、エリザベートの起こした奇跡として度々語られる。

バラの奇跡

1226年、まわりから恐れられた十字軍の説教者であり異端審問官でもあったコンラート・フォン・マールブルク(Konrad von Marburg)がアイゼナハの宮廷にやってきた。コンラートはエリザベートの精神的指導者となり、この敬虔な貴婦人を自身が出世するためのチャンスであると見ていた。この厳格な司祭はエリザベートをさらなる禁欲主義へと駆り立てていくのであった。

コンラート・フォン・マールブルク

一年後、エリザベートの夫ルートヴィヒは以前にした約束を果たすため、第5回十字軍に参加することとなった。夫が出発する前、当時妊娠していたエリザベートは二つの誓いを立てている。ひとつ目は、ルートヴィヒの権利に影響を与えない限り、自らの精神的指導者の声に耳を傾けること。ふたつ目は、もし未亡人になることがあっても、独身を貫き、精神的指導者であるコンラートに服従を誓うこと。

十字軍に参加したルートヴィヒはイタリアのエルサレムに向かう途中で亡くなってしまう。コンラートはすでにエリザベートだけでなく、彼女の財産と子供たちにさえも自身の管理下に置くことができたのだ。エリザベートがルートヴィヒの遺産を貧しい人々に分配し始めたとき、宮廷で権力闘争が勃発したのだった。テューリンゲン宮廷におけるコンラートの影響力を制限するため、ルートヴィヒの兄弟ハインリヒ・ラスペは未成年の王位継承者ヘルマンに王位を継承させた。

ハインリッヒ・ラスぺ

慈善活動を続けるエリザベートをもはや正気を失っていると確信したハインリッヒは、エリザベートに食事付きで宮廷で生活する権利だけを認めたのだった。この厳しい要求によって、宮廷での生活が事実上不可能となってしまったエリザベートは、子供たちと近しい使用人数名を連れて、ヴァルトブルク城を去ったのだった。

その後も、コンラートはエリザベートにかなりの影響を及ぼし続けた。コンラートの「指導」のもと、エリザベートは最後に残った友人たちとも決別し、家族からも離れ、ついには子供たちをも諦めたのだった。 エリザベートの親戚は、この関係に介入し、叔父のエックバート・フォン・バンベルグ司教(Eckbert von Bamberg)のもとに連れて行ったのだが、 結局エリザベートはマールブルクのコンラートのもとに逃げ戻ってしまうのだった。

うら若き未亡人とその「精神的指導者」との関係は、当時から様々な憶測を呼び起こしたという。エリザベートは実は精神障害を持っていたという説を唱える人もいる。しかし、13世紀は神への探求の時代であり、不平等な財産に関する問題に執拗に取り組んだ時代でもあった。急進的な貧困運動が次々と起こっていったのだった。異端者として迫害された者もいれば、今日でも知られるフランシスコ会やドミニコ会といった托鉢修道会へと進んだ者もいた。

エリザベート自身もこういった伝統に深く関わっていた。エリザベートはいくらかの金銭的補償を受けることができた後、1228年にマールブルグの城壁の前に病院を設立しており、その頃列聖されたばかりのアッシジのフランチェスコを守護聖人として選んでいる。そして、フランチェスコ同様、エリザベート自身も絶対的な貧困の中でキリストに従い、貧しい人々に仕えることを願っていたのだった。

アッシジのフランチェスコ (フランチェスコ・デ・スルバラン作)

厳しい看護活動にも関わらず、エリザベートは、自身の精神的指導者からの厳格な命令には妥協せずに服従したのだった。時には、ほんのわずかな違反を犯したときでさえ、厳しく罰せられたという。エリザベートは、特に妊婦と子供たちに対して愛情を注いだという。心身を削って奉仕に身を捧げたエリザベートはその重労働がたたってか、1231年11月17日、わずか24歳で亡くなっている。

エリザベートの死後、コンラートは彼女が列聖されることを強く求めたが、自身も2年後に亡くなり、彼自身の「作品」の列聖を見ることは叶わなかった。しかし、その死後から、エリザベートは人々の崇拝の対象となり、1235年、教皇グレゴリウス9世はエリザベスを列聖している。エリザベートの埋葬日である11月19日は、この聖人を偲ぶ日となっている。

ドイツ語圏では、プロテスタントや英国国教会も同様に、11月19日はエリザベス追悼日となっている。また、11月17日のエリザベートの命日がカトリックの記念日となっている国もある。今日、多くの社会センター、病院、老人ホーム、福祉施設、教会、修道院が聖女エリザベートの名前を冠しており、エリザベートは、パン屋、乞食、未亡人、孤児や迫害を受ける人々にとっての守護聖人となっている。エリザベートを偉大たらしめたのは、王室の地位ではなく、貧しい人々へのあふれんばかりの愛情と情熱的な献身であった。

かつてエリザベートの遺体が納められていた棺(聖エリザベート教会)

参考:

Seelsorgeeinheit Ottersweier Maria Linden, “Für Kinder erklärt: Das Rosenwunder”, https://www.kath-ottersweier-maria-linden.de/glauben-leben-2/glaube-gebet/kinder-und-glaube/detail/nachricht/id/82305-fuer-kinder-erklaert-das-rosenwunder/?cb-id=12058069

katholisch.de, “Elisabeth von Thüringen: Die Patronin der Nächstenliebe”, Valerie Mitwali, 19.11.2019, https://www.katholisch.de/artikel/61-rosen-im-korb

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