【ドイツの歴史】血塗られた復活祭

ドイツ周辺地域

デュッセルドルフの西には、メンヒェングラートバッハという町があるが、その北にあるジュヒテルン(Süchteln)とオランダとの国境の町、ロッバーリッヒ(Lobberich )には、今日ではほとんど忘れ去られている伝承がある。三十年戦争中、この辺りで無防備な群衆が虐殺され、死体は山積みになって横たわっていた。伝説ではあるが、この物語にはいくらかの真実が含まれている。

銃器の発明は戦争を完全に変えてしまった。重装甲の騎士の時代は終焉を迎え、一方で軽装の傭兵の時代が到来した。傭兵は金で雇われる身分であり、賃金を払う者には誰にでも仕えたが、金を払わなくなったとたんに危害を加えることもあった。こういったことは、戦争が終わり、傭兵軍が解雇された場合にたびたび発生した。失業中の傭兵たちはひとつの場所に留まらず、仕事を求めてあちこちに移動し、武装強盗や追剥として活動した。こうして数多の暴漢が傭兵軍に参加した。農民たちは常に不安を抱え、恐怖に震えて生活することとなった。

1518 年の春、「シュバルツハウフェン(黒い一団:Der schwarze Haufen)」と呼ばれる約 8,000 人の傭兵の一団が失業し、ライン川下流域からヒュルス(Hüls)とケンペン(Kempen)を通ってマース川方面を荒らしていた。傭兵の一団がユーリッヒ(Jülich)とモース(Moers)に攻め込むという噂が広まると、ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公爵ヨハン3世は軍を召集した。このヨハン3世とは、イングランドのヘンリー8世の四番目の妻となるアンナの父親であり、平和公(der Friedfertige)という綽名を付けられた人物である。ヨハン3世の進軍に伴い、ケルン選帝侯とブラバント公国も補助部隊を送った。

復活祭の1週間前、聖週間が始まった頃、「狩り」が開始された。聖木曜日に、ユンカー・フォン・レンネンベルク(Junker von Rennenberg)は、あたかも狩りにでも行くかのように朗らかに行軍を開始し、多くの貴族が加わった威風堂々たる騎兵隊を率いて、デュルケンに宿営した。前日、ドロスト・フォン・ミレン(Drost von Millen)は多くの騎士と共にブリュッゲンに到着し、そこで一夜を過ごした後、他の軍隊と合流した。フォークト・フォン・ダーレン(Vogt von Dahlen)は、ユーリッヒ軍に加勢された軍を指揮した。

こうして圧倒的な軍事的勢力に直面して、傭兵隊の一団はヨハン公爵に謙虚な手紙を送り、攻撃を中止するように懇願した。「我々は一片のパンのために戦ったにすぎません。」と自身の行動を説明した。両軍の間で交渉が進行中であり、傭兵が武器を引き渡して降服すれば、退却を許されるとの保証がなされた。この時、ユーリッヒ軍はドルンブッシュ(Dornbusch)とハーゲンブロイヒ(Hagenbroich)の間に位置するヴィントベルク(Windberg)に陣取っていたが、すぐにそれ以上前進しないよう命令を受けていた。

そして、復活祭の月曜日に前代未聞の事件が起こった。傭兵たちは、降服の印として武器を引き渡すために軍隊に向かって歩を進めた。ブラバント軍の兵士はこの敵の前進を誤解した。そして降服の意思を示していた傭兵隊に攻撃を開始し、目を覆うほどの一方的な虐殺が繰り広げられた。 その結果、約800人の傭兵が死亡し、残りはフェンロー(Venlo)に向かって逃走した。

全軍を指揮していたヨハン公はこの恥知らずな行為に当惑し、面目を失った。ヨハン公は側近を引き連れてブリュッゲンへと入り、復活祭の後の木曜日までそこに留まった。ヨハン公と側近は地元住民から歓迎を受けたが、この「血塗られた復活祭」(Rote Ostermontag)に満足であった者はいなかった。

参考:

sagen.at, „Der „Rote Ostermontag“ von 1518“, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/ostermontag.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました