白鳥の騎士 | クレーフェのローエングリン噴水

クレーフェ

【ドイツの伝説】lクレーフェに伝わる「白鳥の騎士」の伝説

ノルトライン=ヴェストファーレン州デュッセルドルフの行政管轄区に、人口5万2千人のクレーフェ(Kleve)という小さな町がある。ライン河畔の町であり、オランダとの国境までわずか10キロ程度である。

クレーフェの中心地には、おもしろい噴水がある。この噴水は、ローエングリンの噴水またはエルサの噴水と呼ばれている。この噴水は、クレーフェの町の起源について物語っている。もちろん伝説の範疇に入るお話であり、歴史的な検証は不可能である。しかし、クレーフェの起源は、この物語に登場するベアトリクス王女(Béatrice de Bourgogne)の時代にまで遡るとされる。

べアトリクスがクレーフェ城にいたのは、約1000年前のこと。彼女は父親が亡くなって悲嘆にくれており、国を守るために必死だった。王女は結婚することを期待されていたが、そう簡単に決断できるはずもなく、ライン川沿いをとぼとぼと散歩しながら思案にふけっていた。(今日、この道は「ケルミスダール」(Kermisdahl)と呼ばれている。)

ケルミスダール (Source:niederrhein-tourismus.de)

突然、まるでおとぎ話のように、一羽の美しい白鳥が彼女に近づいてきた。白鳥は首に金の鎖をつけ、後ろに小舟を引っ張っていた。よく見ると、ひとりの騎士がその小舟の上に立っていたのだ。船が陸地へと到着する前に、騎士はベアトリクスと話す許可を求めた。騎士は自身の国を守り、敵を打ち負かすためにこの地にやって来たと言う。


べアトリクスは白鳥の騎士と恋に落ち、彼との結婚を決断するまでそう長くはかからなかった。騎士はたったひとつを条件に結婚に同意したのだった。その条件とは、王女が決して彼に名前と出身地を尋ねないこと。

それから長い年月が経過した。夫婦の間には3人の息子ができ、家族は幸せに暮らしていた。息子たちは順調に成長し、やがて好奇心を持つようになった。父親は一体どこから来たのだろうか?子供たちはいつか結婚したいと考えており、自分たちの家系の長い歴史に誇りをもっていた。彼らは母親にすがりつき、自分たちの疑問に対する答えを父に質問するよう迫った。

彼女は夫である騎士との約束を思い出したが、それでも子供たちの為に質問してみることにした。彼女は夫に禁断の質問をした。その質問を訊くなり、夫の表情は暗くなり、そして悲しそうに答えた。「私の名前はエリアス。私は地上の楽園から来たのだ。」その瞬間、どこからともなく一羽の白鳥が現れ、騎士を連れて消えしまったのだった。夫との誓いを破り、最愛の人を失ったしまったべアトリクスは、数か月後、傷心のうちに息絶えるのだった。

民話の中では、エルサの噴水(Elsabrunnen)として知られているローエングリンの噴水だが、それをモチーフにしたクレーフェにあるこの噴水は、カール・ヘニング・ゼ―マン教授(Prof. Karl-Hennig Seemann)によって作られた作品だ。

この物語の主人公ベアトリクス王女のモデルは、 ベアトリクス・ド・ブルゴーニュ(Béatrice de Bourgogne) だ。ベアトリクスは、バルバロッサこと、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世の2番目の妻で、二人はヴュルツブルクで結婚している。この結婚により、ブルゴーニュ伯領はその後ホーエンシュタウフェン家領となった。

シュパイヤー大聖堂にあるベアトリクスの墓

クレーフェ伯家とロレーヌ公家との姻戚関係により、ブラバントの「白鳥の騎士」の伝説がクレーフェにもたらされ、クレーフェ城が「白鳥城」(シュヴァーネンブルク、Schwanenburg)と呼ばれる由縁となった。

13世紀ドイツの詩人、コンラート・フォン・ヴュルツブルク(Konrad von Würzburg)は『白鳥の騎士』においてクレーフェ伯家を、ゲルレ(ヘルレ)家の両伯、リエネク家とともに白鳥の騎士の血筋につながるとしている。

コンラート・フォン・ヴュルツブルク

ライン川下流地域、特にクレーフェでは、この白鳥の騎士の伝説の起源は不明となっている。コンラート・フォン・ヴュルツブルクがバーゼルに何十年も住んでいたことは文書に残っているが、1258年頃にクレーフェの宮廷に滞在し、伯爵に代わって白鳥の騎士の伝説を書いたという、いわゆるライン下流説は証拠がなく、単なる憶測でしかない。

1280年代には、少なくともクレーフェの宮廷との間接的なつながりは存在した。クレーフェのディートリヒ8世は、皇帝の忠実な同盟相手であったことが証明されているため、1290年に伯爵と皇帝の姪であるマルガレータ・フォン・ノイーカイブルク(Margareta von Neu-Kyburg)が結婚したことは、それほど驚くべきことではなかった。(ノイ‐カイブルク家は、ハプスブルク家の傍流。) 彼らの結婚式はエアフルトのルドルフの御前で行われた。

マルガレータは夫より数十年長生きした。 1318年に彼女はベートブルク(Bedburg)のプレモントレ修道会修道院(Prämonstratenserinnenstift)に入り、そこで1330年代(1333/38の間)に亡くなっている。 1142年に亡くなったクレーフェのアーノルド1世伯爵とその妻イダ・フォン・ブラバント(Ida von Brabant)のために、ベートブ​​ルクに新しい共同葬の墓が作られたのはまさにこの時だった。この墓標には、クレーフェ伯爵の足元に一羽の白鳥が佇んでいる。この意匠は長い間、クレーフェに伝わる白鳥の騎士の伝統の唯一の根拠であった。

伯爵夫人は若い頃にコンラート・フォン・ヴュルツブルクの作品を知った可能性が高い。彼らが結婚した頃には、白鳥の騎士の伝説は夫婦にとって特別な意味を持っていたのだろう。彼女がこの墓標を寄贈したとしても、それは得に驚くほどのことでもない。墓は、イダ・フォン・ブラバントとともに、この公国との系図上のつながりに言及している。コンラート・フォン・ヴュルツブルクの作品は、詩人自身がライン川下流地域に足を踏み入れることなく、クレーフェの白鳥の騎士の伝説を創作したのだと考えられる。

クレーフェ伯爵家は、1417年、コンスタンツ公会議において、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントにより、公爵位を授けられている。その後、クレーフェ公家は1609年まで続いている。

クレーフェ公爵家の最盛期は、16世紀、クレーフェ公女アンナ(アン・オブ・クレーヴズ)がイングランド王ヘンリー8世へ嫁いだときのことだ。 クレーフェ公爵家の廃絶後、クレーフェ市と公爵家領の一部は、ブランデンブルク選帝侯の領地となったが、17世紀後半、 ブランデンブルク 選帝侯の代官である、ナッサウ公ヨーハン・モーリッツ(Fürst Johann Moritz von Nassau)の統治下、市は「昔の栄華」(16世紀の繁栄)を取り戻したのだった。

参考:

rhein-mass-region.de, “Die Schwanennrittersage”, Rainer Ise, https://rhein-maas-region.de/schwanenrittersage.php

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