【ドイツの歴史】古代ローマを夢見た皇帝 | オットー3世

クレーフェ

オットー3世の生涯とオットー朝の断絶

ドイツ北西部に位置する小さな町、クレーフェ。この町とオランダ国境との間にはケテルヴァルト(Ketelwald)という森が広がる。980年6月6日、この森を通る一団があった。一団はアーヘンからナイメーヘンへと向かっている途中であった。豪華な馬車に乗っていたのは、神聖ローマ皇帝オットー2世妃テオファヌであった。この日、テオファヌは移動途中であったこのケテルヴァルトの森で、二人の子供を出産した。残念ながら女児は出産後すぐに息を引き取ったが、男児の方は健康であった。これが後のオットー3世である。

オットー3世は、あらゆる面でこれまでの皇帝とは異なっていた。皇帝オットー3世の父親は、ドイツ皇帝オットー2世であり、ハインリッヒ1世より続くザクセン朝の王位継承者であった。母親は、コンスタンティノープル出身のビザンツ王女テオファヌであり、東ローマ帝国のニケフォロス(Nikephoros)の姪であった。ヘレニズム文化を吸収した母親のテオファヌは、「野蛮な」ゲルマニン文化の真ん中で息子のオットーを育て、彼に帝王学を授けたのであった。子供の頃、オットー3世はアーヘンでビザンツ式典礼と東洋の伝統のなかで育てられた。まるでコンスタンティノープルの宮廷のように、学者、天文学者、数学者、哲学者、詩人、ヒューマニスト、司教たちが若い皇帝の顧問として、当時最高の学問を余すところなく教えたのであった。


983年に父親のオットー2世が亡くなった直後、3歳のオットーは、オットー朝の王朝を保証するために、ローマのサンピエトロ寺院で皇帝に戴冠した。当時、母親のテオファヌと祖母のアデルハイドの2人の女性が、未成年者のために摂政として国政を運営したことも異例のことであった。996年、オットー3世が2度目にローマを訪問したとき、彼はまだわずか16歳であった。ローマは、ドイツ皇帝と皇帝が選んだドイツ教皇に対抗する有力貴族、クレシェンジ家(Crescenzi)によって支配されていた。クレッシェンジが最初に選挙を支持したローマ教皇ヨハネス15世を都市から追放したとき、教皇はオットー3世に助けを求めた。しかし、オットーが軍隊を率いてローマに到着する前に、教皇はこの世を去っていた。そこで、皇帝はいとこであるカリンシアのオットー公をグレゴリウス5世として新しい教皇に任命。この25歳の新教皇が16歳の皇帝を戴冠させたのであった。しかし、この体制は長くは続かなかった。

オットー3世はほとんどイタリアに滞在せず、ドイツに引き返したのだった。アーヘンに戻る途中で、ローマ人はドイツ人の教皇を追放し、自身の陣営から1人を任命した。皇帝はこれを知ると、998年にすぐにローマへと戻り、自身が任命したグレゴリウス5世を教皇に復帰させた。グレゴリウス5世はわずか1年後にこの世を去ったが、皇帝は999年に再びドイツ人の教皇を選んだ。オットーの学友であるゲルベルト・フォン・アウリラック(Gerbert von Aurillac)をシルベスター2世(Silvester II.)として新教皇に任命した。ローマ人はそのためにドイツ皇帝を決して許さなかった。

ローマやイタリアでは帝国の権威が当然のことと見なされることはなく、常にその威光を示す必要があった。オットーは自身がローマ皇帝の権利を維持し、自身が選出した教皇を保護するのであれば、ローマに定住する必要があることを理解していた。

これまで、オットー3世皇帝は、ローマ皇帝がすでに住んでいたローマの権力の座として、当時放棄されていたパラティーノの丘を選んだと考えられてきた。しかし、この丘には人が住んでいたため、10世紀にはローマの偉大な家族の邸宅が存在したアヴェンティン(Aventin)を好んだ可能性が高い。オットー3世は、おそらく古い宮殿の廃墟を、控えめなローマ帝国の宮殿に改造し、サンボニファシオ・エ・アレッシオ(San Bonifacio e Alessio)修道院教会をその隣に設置した。残念ながら、構造的な痕跡は残ってない。この修道院では、僧侶はギリシャ語、ラテン語、スラブ語の読み書きを訓練されており、彼らは貴重な戴冠式のマントを皇帝に贈っていたことから、皇帝はこの修道院を支持していた。

ここアヴェンティンで、情熱的なオットー3世は、ローマ帝国のリーダーシップのもとで、西と東のキリスト教帝国を、教皇との緊密な同盟を通じて再統一するというユートピア的な考えを夢見ていた。彼の宮廷では、ビザンツと古代ローマの伝統が政治的、文化的、建築的レベルで融合しうるはずであった。彼は宮廷にギリシャ語を導入し、自身にもギリシャ語の名前が付けられていた。皇帝はまた、禁欲的な僧侶との接触し、巡礼の旅を行うなど、キリスト教精神で生活を送るために努力を惜しまなかった。

彼はギリシャ語を紹介し、ギリシャ語の名前が付けられた。皇帝はまた、禁欲的な僧侶との接触を維持し、懲罰的および巡礼の旅を行い、キリスト教の精神で生活を送るために真剣な努力を惜しまなかった。オットー3世は、自身に相応しい花嫁候補を見つけるよう、ミラノの司教をコンスタンティノープルの宮廷へと派遣した。彼も母親のテオファヌのようなビザンツの王女を妻にしたいと考えていたからだった。結婚はまた、将来的にコンスタンティノープルとの関係を強化することを目的としていた。結婚契約が受け入れられ、ビザンチツの花嫁の旅が準備されることとなった。

しかし、ローマでは、教皇位をめぐる有力貴族間の権力闘争が再び燃え上がっていた。当初、彼らは皇帝の権威を受け入れ、最初の帝国派閥さえ形成されている状況であった。オットーがドイツ人教皇シルベスター2世を王位に就かせたことで、皇帝と教皇のこの新たな「同族」同盟を望んでいないローマ市民は一斉に皇帝に抵抗を示した。 1001年に民衆蜂起があり、オットー3世と教皇シルベスター2世はローマから追放され、二人はラヴェンナへと逃亡したのだった。

オットー3世は、ローマを再征服するためにドイツから呼び寄せた軍隊が到着するのを待っていたのだが、軍の到着はあまりにも長くかかった。その間、皇帝はマラリアに罹ってしまうのであった。(あるいは毒殺であったか)ラヴェンナからローマに向かう途中、彼と側近は、忠実な友人である亡命した教皇シルベスター2世が亡命していたモンテソラッテのパテルノ城までしか到達しなかった。1002年1月、この場所で、まだ若い皇帝はわずか22歳で亡くなった。彼の夢は実現されることはなかった。オットー3世にはまだ世継ぎがなかったため、彼の死によりオットー朝は断絶した。安息の場所として、彼はアーヘンのパラティン礼拝堂のカール大帝の隣に埋葬されることを望んでいた。

防腐処理された皇帝の死体が、兵士たちによってアルプスを越えて北に運ばれている間、彼の将来のビザンチンの花嫁とコンスタンティノープルからの彼女の側近を運ぶ船はイタリア南部のプーリア(Puglia)に到着したところであった。

オットー3世が存命していたら、歴史はどれほど違っていただろうか。 教皇との提携により、ローマを再び旧ローマ帝国全体の恒久的な首都にすることに成功していたのだろうか? 彼はどこで間違いを犯したのだろうか?

オットー3世以外、彼の理想とした世界を実現するのに相応しかった人間はいかなったであろう。なぜなら、彼は西洋と東洋の両方の文化を1つにまとめて吸収した人物だったからである。 ほんの短い期間であったが、理想を追い求めた皇帝はローマの街に文化的な希望の光をもたらし、中世の夕暮れの眠りから一時的に目覚めさせたのだった。

参考:

kas.de, “Otto III. Der Traum eines romantischen Kaisers”, https://www.kas.de/de/statische-inhalte-detail/-/content/otto-iii.-der-traum-eines-romantischen-kaisers

goch.de, “Kaiser Otto III.”, https://www.goch.de/de/inhalt-4/kaiser-otto-iii./

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