碁盤目の宮廷都市 | マンハイム

マンハイム

【ドイツ観光】プファルツ選帝侯の拠点、古城街道の出発点

マンハイムは、ライン川とネッカー川の合流地点に位置する町だ。マンハイムが最初に文献で言及されたのは766年。ロルシュ修道院(Kloster Lorsch)にある文書コレクションに「Mannheim」の記載がある。当時はさほど重要ではない小さな村だった。語源は、マンは「Manno」の意で、これはハルトマン(Hartmannn)またはヘルマン(Hermann)の短縮形だと考えられている。ハイムは「家」の意なので、「ハルトマン(もしくはヘルマン)の家」。しかし具体的にそれが何を指しているのかはわかっていない。1160年以降、マンハイムはプファルツ選帝侯領であった。 村は主に農業と畜産、そしてライン川を通る船から徴収する通行料によって成り立っていた。

マンハイム近郊には税関の役目をしていた2つの城、ラインハウゼンとアイヘルスハイムがあったが、マインツ大司教の軍隊によって破壊された。 再建後、現在のアイヘルスハイム城がこの地域の主要な税関となった。マンハイムが重要性を増すのは、17世紀に入って、選帝侯フリードリヒ 4 世が、ネッカー川がライン川に流れ込む、この河川交通の要所に要塞と貿易の町を建設することを決定したときだった。

プァルツ選帝侯フリードリッヒ4世

マンハイムが フリードリヒ 4 世 から都市特権を与えられたのは、1607年1月24日。星型の形状を持った城塞は都市から分離され、都市はチェス盤のような碁盤の目に建設されたのだった。その後、この独特な都市の形状は、マンハイムを特徴づけるアイデンティティーとなっていった。この設計計画は、ルネッサンスの理想的な都市を作るという方向性が固って、都市の形状をルネサンス的な左右対称にしようと志向したことによる。そしてその都市に付属する形で、強固に要塞化されたひし形の城塞の建造が計画されたのだった。

要塞建造の計画は、1606年から1610年までプファルツ選帝侯に仕えたオランダ人バーテル・ヤンソン(Barthel Janson)によって立案された。建設はダビッド・ヴォルムサー(David Wormser)によって行われ、要塞建設の監督は選挙長官のオットー・ツー・ソルムス伯爵(Otto zu Solms)と評議員のヨハン・ジェナント(Johann Genandt)によって行われた。しかし、建設が始まって間もなく、戦争がこの計画を中断してしまう。

三十年戦争の混乱もマンハイムを素通りすることはなく、軍事攻撃と包囲により、市内の人口は大幅に減少した。プロテスタント側だったマンハイムは、ハイデルベルクなどとともに、カトリック国スペイン・バイエルン軍に敗北。三十年戦争が終了してから再開された都市の再建は、今度はプファルツ継承戦争での強力なフランス軍の攻撃によって突然終了した。しかし、ネッカー川とライン川の合流点という、マンハイムの地理的重要性は変わらず、都市は再度再建されるのであった。

同じく プファルツ継承戦争 で破壊されたハイデルベルクは、バロック建築の複合施設を建設するには、諸所の要件を満たしていなかったため、1720年、ヴィッテルスバッハ家のプァルツ選帝侯カール3世フィリップは宮廷をハイデルベルクからマンハイムへと移した。町にはマンハイム宮殿とイエズス会の教会が建設された。マンハイムは プァルツ選帝侯の居城都市として、その後政治の中心となり、その全盛期を迎えた。

マンハイム宮殿は、ライン川を背に、ネッカー川に向かって建っている。宮殿の前面に碁盤目状に道が交差している。現在、宮殿の建物はマンハイム大学の一部として使用されている。バロック様式の建造物としてはドイツで一番、ヨーロッパでもベルサイユ宮殿についで二番目の大きさを誇る。マンハイムでは、芸術が盛んになり、ゲーテやシラー、モーツアルトもこの町を訪れている。

やがて、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン系が断絶し、プァルツ選帝侯カールテオドールがバイエルン選帝侯位を継承した。1778年、宮廷はマンハイムからミュンヘンへと移った。プァルツ選帝侯位も1803年に廃位となっている。マンハイムが選帝侯の居城であったのは、選帝侯が居城をミュンヘンに移すまでの58年という比較的短い期間であった。

1828年、工業化が始まる過程で、マンハイムのライン河畔には港が建設され、1840年に鉄道が通ったことで経済活動が一層活発になった。マンハイムは重要な工業都市としての地位を確立し、1930年代まで人口を最大385,000人へと増加した。 1940年12月から1945年3月の間に、マンハイムは150回以上の空襲を経験。最も激しい空襲は都市は 1943年9月5日から6日の夜に行われたもので、この空襲により、町はほぼ完全に瓦礫と化した。マンハイムは、産業都市という理由で、バーデンヴュルテンベルク州で最も爆撃された都市であり、アメリカによる原子爆弾投下の候補地でもあった。 1945年に戦争が終わった後、マンハイムは米軍による占領を受ける。戦後、市の再建はゆっくりと進んだが、町が大学都市となることが決まってからは再建が一機に進み、1967年までには町の再建は完了したのだった。

現在ではマンハイムは、古城街道(Burgenstraße)の起点として、観光客にも人気である。ここから、ハイデルベルク、ニュルンベルクを通ってチェコのプラハへと続く道が古城街道である。街道の中でも、特にネッカー渓谷は12世紀から13世紀にかけて神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したシュタウフェン家の本拠地で数多くの古城がひしめいており、これらの城館の中には、現在ホテルやレストランとして営業しているものも多くある。

参考:

“Heidelberg – Mannheim – Ludwigshafen:Stadtentwicklung zwischen Idealstadt­mo­dellen, Leitbildern und historischem Einfluss”, Friedericke Stakelbeck und Florian Weber, 2010, http://fgg-erlangen.de/fgg/ojs/index.php/mfgg/article/viewFile/13/8

mannheim.de, “Stadtgeschichte”, Ulrich Nieß, https://www.mannheim.de/de/kultur-erleben/stadtgeschichte

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