ドレスデンを創った王 |ザクセン選帝侯アウグスト2世

ドレスデン

【ドイツの歴史】ザクセン王国の首都ドレスデン

ザクセン王国の古都ドレスデンは、その美しさから、かつてゲーテが「エルベのフィレンツェ」と呼んだ。町は第二次世界大戦で破壊されたが、戦後再建が進み、ツヴィンガー宮殿とフラウエン教会、ピルニッツ城など、今も壮麗なバロック建築が立ち並んでいる。ドレスデンを代表する建築郡を建て、この町を一代芸術都市にしたのが、ザクセン選帝侯にしてポーランド王であったアウグスト2世である。

アウグスト強王 (Source:de.wikipedia.org)

ザクセン選帝侯アウグスト2世には、その死後に「強王」というニックネームがついたが、それにはいくつかの理由がある。彼は体が非常に頑丈で逞しく、素手で馬の蹄鉄を壊し、コインを指で曲げることができたという。また愛人を多く囲い、伝えられるところによると354人の私生児がいたともいわれている。

1687年、17歳のアウグスト王子が貴族の子弟では一般的な「カヴァリアーツアー」と呼ばれるヨーロッパ旅行に出かけたとき、彼は自分の人生にもそれほど責任感を感じていなかった。次男として生まれたアウグストは、父親であるヨハン・ゲオルク3世(Johann Georg III.)から王位を継承し、ザクセンを支配する見込みはなかった。このことは、若いアウグストを旅へと駆り立て、兄に比べてより多く世界を見ることを可能にしたのだった。1687年から1689年のイタリア・フランスへの旅行でアウグストが受けた印象は、後にドレスデンで重要な建築を行う際に、貴重な基礎を与えたといわれている。1688年、アウグストはマドリッド滞在中に、マルケサ・デ・マンゼラ(Marquesa de Manzera)を誘惑。怒った夫がアウグストに仕向けた暗殺者の集団から逃れたという事件があった。

1693年、アウグストはドイツの王女と結婚し、同時に最初の愛人、エレオノーレ・フォン・ケッセル(Eleonore von Kessel)を見初めた。17~18世紀には愛妾を囲うことは普通のことであり、愛人を持たずに職務にだけ情熱を注いだものは、プロイセンの「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のように少し変わった人物とみなされた。

1694年、最初の愛人、エレオノーレ・フォン・ケッセルは機知に富んだスウェーデンの貴婦人、アウロラ・フォン・ケーニヒスマルク(Aurora von Königsmarck)に取って代わられることとなった。アウロラとの関係から、1696年、後にフランス軍の陸軍元帥となったモーリッツ・フォン・ザクセン(Moritz von Sachsen)が誕生している。

アウロラ・フォン・ケーニヒスマルク (Source:de.wikipedia.org)

その間、大事件が起こった。 アウグスト王子の兄である選帝侯ヨハン・ゲオルク4世(Johann Georg IV.)が、1694年4月に死亡したのだった。これにより、わずか24歳であったアウグスト王子は、突如ザクセン王家の後継者となった。これまで政治経験は一切なかったが、積極的に政治に参加せざるを得なくなった。ザクセンを統治したアウグストは、芸術と科学のパトロンでありつづけ、適応力のある政治家であったが、戦争に関しては才能のない凡庸な司令官であったようだ。女性に関しては、アウグストは噂話の尽きることのない人物だった。

17世紀末、アウグスト強王には、ポーランド王になるチャンスがめぐってきたが、ポーランド王にはカトリック教徒しか認められていなかった。そのため、アウグストは、1697年6月にプロテスタントからカトリックに改宗。多額の賄賂を使って、競合先を蹴落としたのだった。東ヨーロッパの教会および世俗の高官に支払った賄賂は、3,900万帝国ターラーとも言われる。こういった「努力」が実り、フリードリヒ・アウグスト2世は、1697年6月27日にポーランド国王となり、9月15日に戴冠式が行われた。彼は王の称号が認められるまで宗派の変更を秘密にしていた。 アウグスト強王の出身であるヴェッティン家はカトリック信仰から脱却してプロテスタントとなった最初の貴族のひとつであった。アウグストは宗教改革の祖国であるザクセンが、カトリックへの改宗を快く思うはずがないとわかっていた。アウグストの妻、エバーハルディン・フォン・ブランデンブルクーバイロイト(Eberhardine von Brandenburg-Bayreuth)はプロテスタントのままであり続け、ポーランドの土地に足を踏み入れることはなく、王から離れて暮らしたのだった。

エバーハルディン・フォン・ブランデンブルクーバイロイト(Source:dresden-magazine.com)

彼は自国の最も美しい女性だけのハーレムを作っており、アウグスト王が亡くなったときには、王の私生児と思われる子供が354人もいたと言われたが、当時、12人以上いた愛人のうち、明らかに1人だけを本当に愛していた。1705年に出会ったコーセル伯爵夫人アンナ・コンスタンティア・フォン・ブロックドルフ(Anna Constanze von Brockdorf)である。

コーセル伯爵夫人アンナ・コンスタンティア (Source:dresden-magazine.com)

二人は9年間一緒に過ごしている。陰謀好きで、貪欲で、パイプを嗜んだコーゼル夫人は3人の子供を産み、彼女のために特別に建てられたドレスデンのタシェンベルク宮殿(Taschenberg-Palais)へと引っ越した。しかし、コーゼル夫人は自分の力を過大評価してしまった。 1715年、アウグスト王がコーゼル夫人との関係を解消しようとした時、コーゼル夫人はアウグスト王が昔、結婚の約束をしたことを公にすると言って脅迫した。 アウグストは妻がなくなったときに備えて、結婚の約束を書面で与えていたのだ。アウグスト強王は彼女を逮捕させ、シュトルペン要塞(Festung Stolpen)に幽閉したのだった。彼女は残りの49年の人生をこの城で過ごすこととなった。

タシェンベルク宮殿 (Source: de.wikipedia.org)
シュトルペン要塞 (Source:heidemuellerin.de)

アウグスト強王は、ファティマというトルコ人女性との間に2人の子供をもうけており、後にルトウスキー伯爵(Rutowski)となる。ファティマはポーランドの貴族から「戦利品」として与えられ、後にフォン・シュピーゲル夫人として貴族としての扱いを受けていた。 1704年に生まれたヨハン・ゲオルグは、ポーランドの貴婦人ウルスラ・ルボミルスカ(Ursula Lubomirska)との関係から生まれた子供だった。 1707年、ポーランド王位をついでいたアウグストは、ワイン商人の娘、アンリエット・デュバル(Henriette Duval)との間に娘が生まれ、後にオルゼルスカ伯爵夫人(Gräfin Orzelska)となっている。

フォン・シュピーゲル夫人ことファーティマ(Source:de.wikipedia.org)
ワイン商人の娘との間に生まれたオルゼルスカ伯爵夫人(Source:de.wikipedia.org)

アウグスト2世は、その治世の間、イタリア・フランス宮廷の壮麗さをドレスデンで再現しようと努力した。強王は芸術と建築を促進し、数日間続くような豪華なパーティーをしばしば開いた。グリューネ・ゲヴェルベ(緑の天井)とアルテ・マイスター絵画ギャラリーの豊富なコレクション、ツヴィンガー宮殿とフラウエン教会、ピルニッツ城の建設などは、強王の尽力によるところが大きい。

アウグスト2世は17歳でアートの収集を始め、 52歳の時、彼は自分の絵の目録を作成したのだが、 完成までに6年かかった。結果として3592枚の絵画があり、ドレスデン宮殿だけで500枚の絵画があった。アルテ・マイスター・ギャラリー(Gemäldegalerie Alte Meister)と彫刻コレクション(Skulpturensammlung)では、アウグスト2世と息子のフリードリヒ・アウグスト2世がわずか数十年で収集した作品郡を見ることができる。アルテ・マイスター・ギャラリーに展示されている「システィーナの聖母」は、ラファエロの最も重要な作品の1つとされている。 1754年、アウグスト2世の息子、フリードリヒ・アウグスト2世は、ピアチェンツァのサンシスト修道院教会(Klosterkirche San Sisto in Piacenza)の財政的不足を利用して、16世紀の聖母マリアの絵画を手に入れたのだった。

ラファエロ作「システィーナの聖母」(Source:dresden-magazine.com)

1710年、アウグスト2世はマイセンに最初のヨーロッパの磁器工場を設立した。以前は苦労してアジアから輸入しなければならなかったものを、以降はマイセンで製造することができ、マイセンの重要な輸出品へと育った。ヨーロッパ磁器の発明者であったアウグスト2世は、若い頃、ルイ14世の磁器コレクションに触れたことから磁器の魅力に取り付かれたといわれているが、ザクセン王位を継いでから29,000個の中国と日本の磁器を集めていた。今日、ツヴィンガー宮殿の磁器コレクションには、東アジアとマイセンの最も美しく重要な磁器作品が含まれている。また、食事に関しては、アウグストはグルメで、得にエルベ地方の料理が大好きだった。アウグストは身長176cmに対して、体重は120kgあったという。王は怪力で錬鉄製の馬蹄形を壊すことができたというエピソードが残っている。

強王が素手で壊したとされる馬の蹄鉄(筆者撮影)

もちろん、こういった生活には代償が伴った。連日のパーティー、建築やコレクションに費やされた費用は、市民への容赦のない増税によってまかなわれた。強王は私生活でも時折その厳しさを見せた。寵愛を失った友人たちはしばしば投獄されると脅され、最も有名な愛人であるコーセル伯爵夫人は終身刑に処せられたのだった。アウグストはいつも愛人を丁寧に扱い、豊富なプレゼントを贈った。しかし、彼らが自分にとって邪魔と見るやいなや、容赦はなかった。

数多くの愛人だけでなく、アウグストの自由なライフスタイルは、高血圧、代謝障害、糖尿病などの病気の原因となった。医師に節度を求められてもアドバイスを無視し、アウグスト強王はついに1733年にワルシャウで体調を崩し、そのまま63歳でこの世を去った。死因は、糖尿病による合併症によるものであったといわれている。

エルベ対岸に建てられた強王の像(筆者撮影)

アウグスト2世の遺体はポーランドのクラクフ城の王室納骨堂に収められているが、王自身の意思によって心臓はドレスデンに戻され、黄金で内部を装飾されたシルバーの容器に入れられ、カトリックの宮廷教会に収められている。アウグスト強王には、知られているだけでも8人の庶子がいたとされる。 まだ未確定の子供がいたとしても、伝えられているような354人の子孫はいなかったとされている。

アウグスト強王の心臓が収められたケース (Source:dresden-magazine.com)

参考:

welt.de, “Wie viele Kinder hatte August der Starke?”, Jan von Flocken, 17.07.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article1033752/Wie-viele-Kinder-hatte-August-der-Starke.html

erlebe-dresden.de, “August der Starke – Sachsens legendärer Kurfürst”, https://erlebe-dresden.de/wissenswertes/historische-persoenlichkeiten/august-der-starke

dresden-magazine.com, “Wer war August der Starke?”, NADJA FLEISCHER, 12.05.2020, https://dresden-magazin.com/kultur/august-der-starke/

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