ラウインゲンの万能の天才
ウルムとアウグスブルクの中間地点に位置するラウインゲン(Lauingen)は、ドナウ川の畔に位置する小さな町である。
この町の市庁舎の前には銅像が建てられているが、この像のモデルとなったのが、「中世における万能の天才」と呼ばれたアルベルトゥス・マグヌスである。
彼は、哲学者、弁護士、自然科学者、神学者であり、教会の司教も務めた。ドナウ河畔の自然豊かなこの町からどのように万能の天才が生まれたのか?ラウインゲンの旧市街に入ると、偉大な学者の足跡をたどる《アルベルトゥスの道》を歩くことができる。アルベルトゥス・マグヌスのモニュメントがある市場広場から、ヘルツォーク・ゲオルク通りを経由して聖マルティン教区教会まで続き、そこからブルンネンタール川上流を通ってドナウ川岸へと向かう。最後にブルンネンタール川を渡ると、スタート地点の市庁舎に戻る。道中には11のポイントがあり、ドナウ川での自然観察など、偉大な科学者であったマグヌスの育った環境を体感することができる。
アルベルトゥス・マグヌスの生涯
アルベルトゥスは、1200年頃にラウインゲンで生まれた。アルベルトゥスの父親は騎士階級か、シュタウフェン朝に仕える下級貴族であったと考えられるが、その他のことは生年月日も含めてわかっていない。幼い頃から非凡な才能を見せ、「驚くべき奇跡」と言われていた。晩年、あらゆる分野における権威となったアルベルトゥスには、ラテン語で「マグヌス(偉大な)」という形容詞が付けられ、アルベルトゥス・マグヌスと呼ばれるようになった。古代そして現代の専門文学の優れた愛好家であり、その時代のあらゆる知識を吸収したいと考えていた。
アルベルトゥスは1222年に叔父とベニスとパドヴァで暮らし、その頃に医学を学んだ。この時期にアリストテレスの著作に触れている。また、ドミニコ修道会の総長であるヨルダン・フォン・ザクセン(Jordan von Sachsen)と知己を得ており、アルベルトゥスも修道会に入会している。その後、ドイツに戻ったアルベルトゥスはケルンのシュトルクガッセ(Stolkgasse)にある修道院で修行を終え、そこで神学の勉強を始め、司祭に叙階された。その後は、ヒルデスハイム、フライブルク・イム・ブライスガウ、レーゲンスブルク、ストラスブールなど、さまざまなドミニコ会の修道院学校で学び、そして教えた。 その後はフライブルクの修道院で職に就いており、この時に聖母マリアの賛美を含む最初の作品を著している。
アルベルトゥスの業績でもっとも重要視されているのは、キリスト教アリストテレス主義の基礎を築いたことである。アリストテレス主義とは高度な学問主義であり、つまりは現代科学の基礎である。それまで、アリストテレスの作品は異教文化に由来するため、キリスト教界では物議を醸していた。しかし、アルベルトゥスはアリストテレスの作品を研究し、編集し、注釈を残した。アルベルトゥスが残した注釈は、アリストテレスの全著作に及び、この功績は、当時ヨーロッパに建設が始まっていた大学教育においても多大な貢献を残した。アルベルトゥスは、アリストテレスの自然哲学的思考をキリスト教の信仰と調和させようとして、神学、哲学、医学、自然科学などの幅広い学問に取り組んだのだった。
しかし、科学者としてのマグヌスは決して伝統的な知識だけで満足しなかった。マグヌスは自身が得た知識を、自身の観察と実験で補った。万能の天才は、現代社会における研究にも没頭していった。マグヌスは若い頃から、シュヴァーベンの故郷の自然について関心を持っていた。貪欲な知識欲は、マグヌスをして様々な地域へ旅立たせた。ローマ、パリ、リガなど、中央ヨーロッパのあらゆる都市を徒歩で旅したが、こういった遍歴を通して、自分の周りの世界について知識を増やしていった。
アルベルトゥスは錬金術の研究を行っていたことも有名である。錬金術を自然に最も近い芸術であると考え、錬金術に関する著作を残している。最も重要なものは《デ・ミネリブス》(De minelibus:ミネラルについて) という著作で、彼はアリストテレスに従い、物質の形成原理を調べ、特性の変換について研究していた。しかし、もちろんアルベルトゥスであっても卑金属から金を生成することはできなかった。
トマス・アクィナスとの出会い
1243年、アルベルトゥスはパリのソルボンヌ大学に5年間通い、神学の修士号を取得している。そこで3年間教鞭をとり、アリストテレスとユダヤ・アラビア哲学を教えた。この時期にイタリアを出て来たトマス・アクィナスとも知り合っている。トマスは、1245年にアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年間一緒に過ごし、1248年に再び二人でケルンへと戻っている。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。
アルベルトゥス ・マグヌスに伝わる伝説
彼の死後、マグヌスは伝説の人物となった。彼の博学と魔法と錬金術への没頭に続いて、おとぎ話や伝説からのあらゆる種類のモチーフがマグヌスの人生に結び付けられた。そのあまりにも多岐にわたる才能、学問における功績によって、マグヌスについての伝説が語られるようになった。以下に紹介する伝説は、そのもっとも有名なもののひとつである。
アルベルトゥス ・マグヌスは 1193 年にラウインゲンで生まれ、説教者修道院に参加するためにケルンへと旅立った。しかし、彼は愚かな怠け者だった。ある日、熱心に神に祈りを捧げていると、聖母が現れ、神の学問の光になりたいのか世俗の知恵の光になりたいのかと尋ねた。
アルベルトゥスは世俗の知恵を選んだ。聖母マリアは、アルベルトゥスに世俗の知恵を与えることにしたが、神学を選ばなかった罰として、彼が死ぬ3年前に再び愚か者に戻るであろうと忠告した。その後、アルベルトゥスは医学、数学、建築を修め、多くの機械を発明し、伝えられるところによると銃さえも発明した。
1248 年の冬、20 歳の若きローマ皇帝、オランダのヴィルヘルム2世が護衛を引き連れてケルンにやって来た。ひどく寒く、ライン川は凍りついていた。皇帝は、世界的に有名なマグナスに会いたいと思い、長旅からの疲れにもかかわらずマグヌスを夕食に誘い、彼が所有する芸術品のいくつかを見せてくれないかと頼んだ。
翌日、アルベルトゥスは皇帝の一行にお花畑も見せようと申し出た。とても寒い冬の真っただ中であり、あらゆる植物が霜に覆われていたときであった。そのため、皇帝の一団はマグヌスの提案を大声で嘲笑したのだった。しかしその時、門が開き、そこを通って中庭に入ると、花が咲き誇る庭が現れた。甘い香りに包まれて、鳥たちが緑の枝で楽しそうに羽ばたき、さえずっていた。噴水からは水が噴き出し、豊かな日差しに反射していた。皆があっけに取られた次の瞬間、美しい花は消え去り、寒い冬の情景が戻っていた。皆、この不思議な体験にアルベルトゥスに騙されたと笑うしかなかった。皇帝は満足してアルベルトゥスに別れを告げた。
何年かが経過し、教会で説教の途中であったアルベルトゥス・マグヌスは、途中で黙り込んでしまい、それ以上なにも言えなくなってしまった。彼は再び正気を取り戻したが、聖母マリアが忠告したとおり、彼の死3 年前、再び元の愚か者に戻ってしまった。
伝説で語られる、「銃さえも発明した」というのは、アルベルトゥスが自身の著作《デ・ミラビリス・ムンディ》(De Mirabilis Mundi)で「火薬」に関して触れていることからの誇張と考えられるが、実際にはアルベルトゥスの火薬や銃器への貢献は認められていない。皇帝の一団に植物が咲き乱れる中庭を見せるというくだりは、アルベルトゥスが自然科学に通じているという点と、「錬金術」のような一種の魔術師的なイメージから着想を得たものと考えられる。
聖母マリアとの会合の場面などは、アルベルトゥスのあまりにも多岐にわたる知識が、神学研究と祈りを通して神から与えられた特別な力でも得ない限り、到底、習得不可能であると当時の人々が考えた結果だろう。
アルベルトゥス・マグヌスの死後
1280年11月15日、アルベルトゥスはケルンで亡くなった。1622年になって列福され、1931年12月16日に教皇ピウス11世(Pius XI.)によって列聖され、教会博士(Kirchenlehrer)の称号を得ている。アルベルトゥスの神学研究は、その死後、弟子のトマス・アクィナスの学説が正当化されたことで、脇に追いやられる形となった。その為、神学研究よりもアルベルトゥスの科学分野における業績が注目される結果となった。
アルベルトゥスと所縁の深いケルンでは、彼の名前を冠した《アルベルトゥス・マグヌス研究所》(Albertus-Magnus-Institut)が設立されているほか、ドイツ各地で彼の名前を冠した学校や教会が数多く建てられている。
参考:
sagen.at, “Albertus Magnus”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/Albertus_Magnus_2.html
“Albertus-Magnus-Denkmal”, https://www.bayerisch-schwaben.de/a-albertus-magnus-denkmal
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