アルベルトゥス・マグヌス | 万能の天才

ラウインゲン

ラウインゲンの万能の天才

ウルムとアウグスブルクのほぼ中間、ドナウ川がゆったりと流れる川辺に、小さな町ラウインゲン(Lauingen)が横たわる。川面に反射する朝の光は、町の赤い屋根や古い石造りの建物に柔らかく映り込み、遠くには森の緑が静かに迫る。市場広場に立てば、町を見守るかのように銅像がそびえている。その像のモデルこそ、中世における万能の天才、アルベルトゥス・マグヌスである。哲学者、弁護士、自然科学者、神学者——そして司教。ここ、ドナウ河畔の自然豊かな土地から、どのようにして後世に伝説となる天才が生まれたのだろうか。

ドナウ河畔に位置するラウティンゲン (Source:donauwald-wanderweg.de)

旧市街に足を踏み入れれば、《アルベルトゥスの道》がその秘密をそっと教えてくれる。市場広場からヘルツォーク・ゲオルク通りを通り、聖マルティン教区教会へ、さらにブルンネンタール川上流を経てドナウ川のほとりまで歩けば、彼の幼少期の自然や学びの環境が目に浮かぶようだ。道中に設置された11のポイントでは、川のせせらぎや森の香りが、かつて彼が吸収した知識の断片に重なり、マグヌスの育った環境を体感することができる。まるで歩く者もまた、天才の好奇心の一端を追体験しているかのようである。

アルベルトゥスの生家と推測される場所に作られた記念プレート(Source:de.wikipedia)

アルベルトゥス・マグヌスの生涯

アルベルトゥスは1200年頃、このラウインゲンで生まれた。父は騎士階級か、シュタウフェン朝に仕える下級貴族だったとされるが、その他の詳細は謎に包まれている。幼少期から非凡な才能を見せ、「驚くべき奇跡」と称された彼は、晩年にはあらゆる学問の権威として知られるようになる。ラテン語で「偉大な」を意味する“マグヌス”の名は、このとき彼に与えられた称号であった。

1222年、叔父と共にベニスとパドヴァで医学を学び、アリストテレスの著作に触れたアルベルトゥスは、ドミニコ修道会の総長ヨルダン・フォン・ザクセン(Jordan von Sachsen)と知己を得て、修道会に入会。その後はドイツ各地の修道院学校で学び、教え、フライブルクの修道院で聖母マリアを賛美する最初の作品を著した。

アルベルトゥスの業績は広範囲に及ぶ。キリスト教アリストテレス主義の基礎を築き、自然哲学や医学、神学、哲学に精通した彼は、古代知識を自らの観察と実験で補い、現代科学の萌芽とも呼べる体系を構築した。さらに錬金術の研究も行い、《デ・ミネリブス》(De minelibus)では物質の生成や変換の原理を探究した。金を生み出すことはできなかったが、その探究心と方法論は後世に大きな影響を与えた。

トマス・アクィナスとの出会い

1243年、アルベルトゥスはパリのソルボンヌ大学に5年間通い、神学の修士号を取得している。そこで3年間教鞭をとり、アリストテレスとユダヤ・アラビア哲学を教えた。この時期にイタリアを出て来たトマス・アクィナスとも知り合っている。トマスは、1245年にアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年間一緒に過ごし、1248年に再び二人でケルンへと戻っている。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。

トマス・アクィナス(Source:de.wikipedia)

アルベルトゥス ・マグヌスに伝わる伝説

彼の死後、マグヌスはもはや一人の人間ではなく、伝説そのものとなった。博学の限りを尽くし、魔術や錬金術に心を傾けた彼の生涯は、おとぎ話や古の伝説のあらゆるモチーフと結びつき、まるで神話の登場人物のように語り継がれることとなった。その才能の広がりと学問上の功績の深さが、人々の想像力を刺激し、マグヌスの名は永遠に語り継がれることになったのである。以下に紹介するのは、その伝説の中でも最も有名な一篇である。

アルベルトゥス・マグヌスは、1193年、ラウインゲンの町に生まれ、青年期に説教者修道院に参加するためケルンへと旅立つ。しかし、その心はまだ揺れ動き、愚かさと怠惰に囚われていたと言われる。ある日、祈りに没頭している彼の前に聖母マリアが現れ、問いかけた。「あなたは神の学問の光となるか、それとも世俗の知恵の光となるか」――そのとき、アルベルトゥスは迷わず世俗の知恵を選んだ。聖母は微笑みながら告げる。「あなたには世俗の知恵を授けよう。しかし、神学を選ばなかった罰として、死の三年前には再び愚か者に戻るであろう」――その予言が、後の彼の人生に影を落とすことになる。

その後、アルベルトゥスは医学、数学、建築、自然学に至るまで、あらゆる学問に精通し、伝えられるところでは銃の発明にまで関わったとされる。しかし、この逸話もまた、彼の錬金術や自然観察の神秘性が後世に誇張されたものにほかならない。

1248年の冬、若きローマ皇帝、オランダのヴィルヘルム2世が護衛を従えてケルンに到着した。凍りつくライン川、霜で覆われた街路――厳寒の中、皇帝は世界的に名高いマグヌスに会うため、疲れた足を運んだ。アルベルトゥスは皇帝を中庭に案内し、庭の門をくぐるや否や、突然、冬枯れの景色は色とりどりの花々に変わった。甘い香りが漂い、鳥たちは緑の枝でさえずり、噴水の水は太陽の光を受けて煌めいた。皇帝と従者たちは息を呑み、驚愕に言葉を失った。次の瞬間には景色は元に戻り、寒々しい冬の庭が広がっていたが、この短い幻影こそが、アルベルトゥスの知恵と魔法の象徴であった。皇帝は満足して微笑み、彼に別れを告げた。

年月が流れ、アルベルトゥスはケルンの教会で説教を行っていた。しかし、ある日、祈りの最中に突然言葉を失い、沈黙のまま立ち尽くした。かつて聖母マリアが告げた予言の通り、彼は死の三年前、再び「愚か者」となったのだという。

伝説には、アルベルトゥスが火薬や銃器を扱ったとされる逸話もある。これは、彼の著作《デ・ミラビリス・ムンディ》(De Mirabilis Mundi)における火薬の記述から派生した誇張であろう。しかし、冬の中庭の花や、彼が自然と錬金術に通じていたことは、真実の彼の天才性を示す象徴的な物語として、今なお語り継がれている。

聖母マリアとの会合、幻想の庭、そして死の三年前に再び愚か者となった逸話――アルベルトゥスの伝説は、その学問の幅広さ、自然への好奇心、そして魔術師のような存在感を一つに織り込み、彼を単なる学者ではなく、神秘に包まれた中世の偉大な人物として後世に刻み込んだのである。

アルベルトゥス・マグヌスの死後

1280年11月15日、アルベルトゥスはケルンでその生涯を閉じた。1622年には列福され、さらに1931年12月16日、教皇ピウス11世(Pius XI.)によって列聖され、教会博士(Kirchenlehrer)の称号を授けられている。アルベルトゥスの神学研究は、その死後、弟子であるトマス・アクィナスの学説が正当化される過程で次第に脇へと追いやられることとなり、その結果、神学よりもむしろ、アルベルトゥスの科学分野における業績が、後世の人々の注目を集めることになったのである。

アルベルトゥスと深い縁をもつケルンでは、彼の名を冠した《アルベルトゥス・マグヌス研究所》(Albertus-Magnus-Institut)が設立されているほか、ドイツ各地には彼の名を掲げる学校や教会が数多く建てられ、その足跡は今日に至るまで生き続けている。

今日、ラウインゲンの町を歩けば、アルベルトゥス・マグヌスの足跡は依然として残っている。川のせせらぎ、古い石畳、教会の鐘の音——そのすべてが、かつてこの地で生まれ、学び、探究した天才の存在を静かに語り続けているのだ。

ケルン大学前に建てられたアルベルトゥス像(de.wikipedia)

参考:

sagen.at, “Albertus Magnus”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/Albertus_Magnus_2.html

“Albertus-Magnus-Denkmal”, https://www.bayerisch-schwaben.de/a-albertus-magnus-denkmal

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