バイロイト城の白い女

バイロイト

バイロイトに建つノイエス・シュロス(Neue Schloss Bayreuth)は、以前の城が1753年の火災で居住が不可能になったため、同年建設が開始された。1758年までには、建物は概ね完成し、バイロイト公国の居住地となった。

バイロイト新宮殿(Source:bayreuth-tourismus.de)

ナポレオン1世が1812年5月14日にロシアへの遠征でバイロイトに到着する前、彼はアシャッフェンブルクから伝令を送った。彼の指示は次のとおりだった:

「皇帝陛下は、白い貴婦人の霊が夜な夜な現れる部屋に泊まることを望んでおられない。」

ホーエンツォレルン家の幽霊をナポレオンが恐れたのには十分な理由があった。

1486年3月11日、フランクフルト・アム・マインでの皇帝選挙中に、当時最も有力な人物の1人であったブランデンブルク選帝侯、アルブレヒト・アキレス(Albrecht Achilles)が亡くなった。この時、彼のバイロイトの宮殿では恐ろしいことが起こっていた真夜中、廊下を歩き回っている白い服を着た女性の姿を歩哨の何名かが目撃していた。この幽霊が現れたのはこの時が初めてだった。

アルブレヒト・アキレス (Source:wikipedia.de)

「未亡人の白いドレスを纏い

尼僧の白いベールを身に着け

彼女は真夜中に現れる

城の壁を通り抜けて」

„Gehüllt in weiße Witwentracht,

Im weißen Nonnenschleier,

So schreitet sie um Mitternacht

Durch Burg und Schlossgemäuer“

後にロマン主義の作家、シュトルベルク伯クリスティアン(Christian Graf zu Stolberg)がこう書き記している。アルブレヒトの死からわずか2年後、ホーエンツォレル家の所有物であるクルムバッハ(Kulmbach)近くのプラッセンブルグ(Plassenburg)で白い貴婦人が目撃された。

白い貴婦人の霊はベルリン市庁舎でも幾度かその姿を現している。 1598年1月1日、彼女はヨハン・ゲオルク選帝侯(Johann Georg)の前に恐ろしい姿で現れた。約束に反して、彼は父親の恋人であるアンナ・シドー(Anna Sydow)をシュパンダウ要塞に投獄していた。そして彼女は1575年に亡くなっている。白い姿の女性は、約束を破ったことに対して姿を現したと考えられる。 ヨハン・ゲオルク選帝侯は、そのたった8日後に亡くなっている。

ヨハン・ゲオルク選帝侯(Source:wikipedia.de)

オランダ出身の選帝侯ルイーズ・ヘンリエット(Luise Henriette)も、1667年6月末に亡くなる直前に奇妙なものを目撃している。彼女は白い貴婦人が彼女の女中と一緒に机に座っているのを目撃した。

ルイーズ・ヘンリエット (Source:wikipedia.de)

彼女の夫である選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm)は1688年に亡くなっている。その直前に、宮廷の牧師であるアントン・ブルンセニウス(Anton Brunsenius)がホーエンツォレルンの幽霊が現れたことを報告している。

フリードリヒ・ヴィルヘルム (Source:wikipedia.de)

1713年2月、燭台と祭壇の十字架を手にした白い姿の女性像が、初代プロイセン王フリードリヒ1世(Friedrich I.)の死の直前に現れた。どうやら彼女は、信仰の問題にかなり無関心だった君主に、悔い改めさせようと忠告のために現れたと言われる。

プロイセン王フリードリヒ1世 (Source:wikipedia.de)

このように多くの目撃談が語れることに対して、白い貴婦人は、特定の歴史上の人物がいたかどうかという疑問が生まれた。

調べていくうちに、学者たちは1351年に亡くなったクニグンデ・フォン・オルラムンデ伯爵夫人(Kunigunde von Orlamünde)に行きついた。彼女は、オットー・フォン・オルラミュンデ伯爵(Otto von Orlamünde)と結婚していたが、夫は1340年に亡くなっていた。未亡人であった彼女に、ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯、アルブレヒト美公(Albrecht der Schöne)が恋をした。この恋愛はすぐに周囲の知るところとなったが、アルブレヒトは彼女の愛を拒絶する以外になかった。両親が二人の不釣り合いな結婚に同意しそうになかったからだ。アルブレヒトは、クニグンデにしぶしぶ「あの《四つの目》さえなければ・・」と呟き、故郷バーデンへと戻る。ところが意外なことに、年老いた両親はふたりの結婚を承諾したのである。アルブレヒトはこの吉報を携えて、クニグンデのものに戻った。しかしである。愛するクニグンデは狂気の淵に沈んでいたのである。

クニグンデ・フォン・オルラムンデ (Source:wikipedia.de)

気を病んでいたクニグンデは、アルブレヒトが言及した《四つの目》が彼女の二人の子供を指すと誤解していたのだった。ある年代記者は、「クニグンデは、彼女の愛の狂気に駆られ、二人の子供の頭に針を刺し殺めた」と記している。しかし、もはやこの過ちを元に戻すことはできなかった。彼女の狂気の行動を聞いたアルブレヒトは、クニグンデを遠ざけ、二度と会うことはなかった。クニグンデ伯爵夫人はローマへの巡礼を行い、そこで教皇は修道院を設立し、そこに入ることを条件に彼女に罪の赦しを与えた。その後、彼女はニュルンベルク近くのベルネック(Berneck)の谷にヒンメルスクロン修道院(Kloster Himmelskron)を設立し、新参者の修道女を表す白い衣装を身に着けて、修道院へと入った。この敬虔な女性による子殺しは、不幸以外のなにものでもなかったが、この物語が怪談として語り継がれることとなる。まず、クニグンデの凶行を知って逃げ出したアルブレヒトは、憔悴しながらバーデンに戻ったが、白衣の婦人の霊が枕元に現れ、明け方、アルブレヒトは息を引き取っていた。そして、その後も、クニグンデの怨念は消えず、その後も時折その姿を現すというものだ。

1806年10月10日のザールフェルトの戦い(Schlacht bei Saalfeld)の前夜、副官のカール・フォン・ノスティッツ(Karl von Nostitz)が報告したように、彼女はルドルシュタット城(Rudolstädter Schloss)でプロイセンのルイ・フェルディナンド王子(Louis Ferdinand)の前に現れている。翌日、王子は騎兵隊の戦闘において落命している。

ルイ・フェルディナンド王子(Source:wikipedia.de)

1809年の春、フランスの胸甲騎兵将軍ジャン=ルイ・ブリパーニュ(Jean-Louis d’Espagne)はバイロイト城で夜を過ごした。真夜中過ぎに、彼の護衛は大きな悲鳴でたたき起こされた。彼らはひっくり返ったベッドの下で将軍を見つけた。将軍は震えながら、白い女性の霊が彼を絞め殺すと脅したと語った。数日後、将軍はアスペルンの戦い(Schlacht bei Aspern)で亡くなっている。

ジャン=ルイ・ブリパーニュ(Source:wikipedia.de)

彼の報告は明らかにナポレオン1世にも恐怖心を与えたようであり、それが冒頭で述べた予防措置を講じた理由となった。にもかかわらず、ナポレオンはバイロイト城で非常に落ち着かない夜を過ごしたよいうだった。目撃者によると、ナポレオンは翌朝「この呪われた城め!」という言葉を残して、城を立ち去ったという。ホーエンツォレル家の幽霊は、差し迫っていたナポレオンの凋落を予言していたという見方もある。奇妙なことに、1822年、バイロイト城主の死後、彼の邸宅で白い女性のロングドレスが発見されたという。

参考:

welt.de, “Die Weiße Frau – Ein Gespenst macht Geschichte”, 07.10.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1238095/Die-Weisse-Frau-Ein-Gespenst-macht-Geschichte.html

bayreuther-tagblatt.de, “Das verwünschte Schloss: Napoleon in Bayreuth”, 24. März 2019, https://www.bayreuther-tagblatt.de/nachrichten-meldungen-news/das-verwuenschte-schloss-napoleon-in-bayreuth/

“ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡 “, 「ツェーリング家」、 May 26, 2017, 菊池 良生, 河出書房新社 

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