1308年5月1日、この日はハプスブルク家にとって血なまぐさい日として記憶されることとなった。ハプスブルク家のヨハン・パリツィーダ(Johann Parricida)が叔父のアルブレヒト1世(Albrecht von Habsburg)を殺害し、ハプスブルク王朝に大きな影を落としたのだ。
ヨハンは、公爵ルドルフ2世とプシェミシュル家出身のボヘミア王オットカル2世の娘アグネスの一人息子として生まれた。彼の父ルドルフ2世は、ハプスブルク家から初めて神聖ローマ帝国の王位に就いたルドルフ1世の末息子であった。ヨハンの父ルドルフは、1282年に兄のアルブレヒトと共に共同統治者としてオーストリア=シュタイヤーマルク公国を封じられた。
アルプレヒトとヨハンが共同摂政を行うことは好ましくないとして拒否された後、1283年にアルブレヒトは単独相続人として公国を継承した。ルドルフへの補償は、別の支配の形または金銭で行われることになっていた。しかし、1291 年にルドルフ1世が亡くなった後もこの補償問題が解決されることはなかった。1298年に王位を獲得したアルブレヒトは、帝国の北西端にあるホラント、ゼーラント、フリースラント各郡の没収に努めた。 これはおそらく、後に弟のルドルフに継承させるためであった。
ヨハンの母方は、プシェミスル家のボヘミア王家の出身であった。彼の母親のアグネスは、バーベンベルク家の遺産をめぐるハプスブルク家の強力なライバルである、プジェミスル家のオタカル2世の娘であった。1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカルが戦死した後、ルドルフ2世は娘のアグネスと結婚した。同時に、ルドルフの末妹のグータ(Guta)は、オタカルの息子でボヘミアの後継者であるヴェンツェル2世と結婚している。7歳と9歳の子供たちの結婚は、ハプスブルク家とプジェミスル家の和解のしるしと見なされた。
ヨハンの父親は、息子が生まれる前の1290年、プラハで妹と滞在中に突如死亡した。父親を亡くしたヨハンは未亡人となった母親とまずシュヴァーベンで、後にプラハで暮らしている。1305年、叔父のボヘミア国王ヴァツラフ2世の死と、いとこのヴァツラフ3世の暗殺の後、父方の家族による未解決の賠償問題に加えて、別の問題が持ち上がった。1306年、勃発した王位継承をめぐる論争で、ボヘミア王家出身の母方の子孫にもかかわらず、ヨハンは継承候補から外されたのだ。彼の叔父で、神聖ローマ帝国皇帝であるアルブレヒトは、自身の息子、ルドルフ3世をボヘミア王に据えたいと望んでいたため、ヨハンはハプスブルク家のなかでさえ支持者がいない状態であった。
ヨハンは少なくとも、シュヴァーベンの先祖伝来の土地における父方の相続分を放棄するよう、アルブレヒト側に要求した。しかし、この要求はシュヴァーベンの更なる分割を防ぎ、相続地の再編成を計画していたアルブレヒトによって拒否された。アルブレヒトは失意の甥を慰めるだけであった。
侮辱ともとれる度重なる要求の拒絶に対する怒りに震えていたヨハンを、シュヴァーベンのハプスブルク家のライバルたちが甘い言葉で励ました。そしてヨハンはついに力に訴えた。1308年5月、アルブレヒトが故郷への旅行でロイス川を渡り、側近から離れたとき、待ち伏せていたヨハンとその共謀者はこの瞬間を逃さなかった。妻と側近の目の前で、アルブレヒトはヨハンの剣によって頭蓋骨を貫かれ一撃で殺害されたのだった。
暗殺されたアルブレヒトの後を継いだのは、教皇クレメンス5世および弟トリーア大司教バルドゥインやマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルトらの支持を受けたルクセンブルク家のハインリッヒ7世だった。帝位はハプスブルク家の手を滑り落ち、ルクセンブルク家のものとなったのだ。アルブレヒトを暗殺した後のヨハンは一旦は逃亡に成功したが、新皇帝ハインリッヒ7世は皇帝殺しの犯人を帝国から追放した。アルブレヒトの娘であるハンガリー女王アグネスは復讐を誓っていとこを追撃した。
ヨハンのその後の運命ははっきりとはわかっていない。1312年、ヨハンはイタリアのピサでハインリッヒ7世に面会し慈悲を求めた。この時、ヨハンはこの北イタリアの都市に投獄されたか、もしくは僧院に入って罪を償ったと考えられている。ピサのサン・ニッコロ修道院教会(San Niccolo)にある墓石の碑文は、ヨハンがその後まもなく他界したことを示唆しているが、ヨハンがその後も生き延びたことを暗示する伝説も巷に流布された。ウィーンのノイアーマルクトで盲目の物乞いがはヨハン・パリツィーダの息子を名乗り、その母親は、ヨハンが森の中で一緒に暮らしていた女性だったという伝説も残っていた。暗殺者のヨハンの生存伝説が残るのは、暗殺された側のアルブレヒトの評価が当時からあまり芳しくなかったからだ。アルブレヒトはハプスブルク家の家領であるスイスと周辺地域の経営に力を入れた。しかし、その圧政に耐えかねたスイス住民は、ハプスブルク家の支配からの独立の気運が高まり、シラーの戯曲などで知られる「ウィリアム・テル」の伝説のような、同家への抵抗運動へと繋がっていくのである。こういったアルブレヒトに対する不評に伴い、暗殺者のヨハンが多少好意的な評価を得るようになったと考えられている。
暗殺されたアルブレヒトは、ザーリア朝の皇帝たちが眠るシュパイヤー大聖堂に埋葬された。アルブレヒトを埋葬したのは、アルブレヒトの後を継いだ新皇帝ハインリッヒ7世である。歴代皇帝の眠るシュパイヤー大聖堂にアルブレヒトを埋葬することで、ハインリッヒ7世は自身の戴冠の正当性を示したかったと言われる。アルブレヒトの隣に眠るのは、父であり、ハプスブルク家から初めて神聖ローマ皇帝となった始祖ルドルフ・フォン・ハプスブルクである。
この血なまぐさい行為を記憶するため、未亡人となったアルブレヒトの妻エリザベート(Elisabeth von Görz-Tirol)は、1308年、スイスのアールガウ州ヴィンディッシュ市(Windisch)を流れるアーレ川の近くにケーニヒスフェルデン修道院(Kloster Königsfelden)を建てた。アルブレヒトと妻エリザベートの娘、アグネスはこのケーニヒスフェルデンの地に移り住み、広大な土地を購入して、修道院を繁栄へと導いている。
しかし、ハプスブルク家の血なまぐさい争いは、これで終わらなかった。暗殺事件からわずか5年後、暗殺されたアルブレヒトの息子であるフリードリッヒが、甥にあたるルートヴィッヒと骨肉の争いを戦うのである。今度は、ルドルフ大帝の孫同士の争いである。皇帝位と土地を争う両者の戦いは、ガンメルスドルフの戦い(1313年)、ミュールドルフの戦い(1322年)としてドイツ史にその名を残している。
参考:
habsburger.net, “Johann „Parricida“: Ein Mord im Hause Habsburg”, Martin Mutschlechner, https://www.habsburger.net/de/kapitel/johann-parricida-ein-mord-im-hause-habsburg
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