【ドイツの歴史】シュタウフェン朝の終焉 |マンフレーディー

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フリードリッヒ2世の次男マンフレーディーの最後

フリードリッヒ2世。バルバロッサと呼ばれた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世の孫にして、第6回十字軍においてエルサレム無血開城を実現した人物である。フリードリッヒ2世は、1209年、コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Constanza de Aragón y Castilla)と結婚したが、死別。1225年、今度はエルサレム女王イザベル2世と結婚し、それによりエルサレム王にも即位していた。しかし、2番目の王妃イザベルは後にコンラート4世となる子供を出産した日に亡くなってしまう。王妃の死後、フリードリッヒ2世は結婚はしなかったものの、ビアンカ・ランチア・ダリアーノ(Bianca Lancia d’Agliano)という女性を愛妾としていた。

1250年、この愛妾ビアンカ・ランチアが死の床にあった時、シュタウフェン家の皇帝フリードリッヒ2世は、彼女と結婚することを決意した。二人はビアンカが亡くなるわずか数日前に結婚している。これは皇帝の真実の愛であったとも言われるが、多分に政治的理由も含まれていた。この結婚により、フリードリッヒ2世は自家が影響力を保持するシチリアと再び結びつけられ、ビアンカとの間に生まれていたふたりの子供たちを自身の跡継ぎとして正式に認めさせたのだった。姉コンスタンツァと弟のマンフレーディーである。生前、フリードリッヒ2世は次男のマンフレーディー(Manfredi)がお気に入りの息子であると語っていた。

マンフレーディーは鷹狩りと哲学に対する父親の情熱を受け継ぎ、宮廷で由緒ある学者のグループから教育を受けたと言われる。フリードリッヒ2世の最後の遺言により、マンフレーディーがタラント公になり、シチリア王国の3代目の王となった。フリードリッヒ2世は、生前、諸侯たちに前妻エルサレム女王イザベル2世との間にもうけた息子コンラートをローマ王、および次期皇帝として選出させており、この結果、1237年以来、コンラートはコンラート4世としてローマ皇帝位を継承していた。

教皇グレゴリウス9世によって破門された皇帝フリードリッヒ2世の死後、シュタウフェン家は急速にその影響力を失い、コンラート4世は帝国における自身の地位を維持できなくなったため、シチリア王国の支配を目指し、異母弟のマンフレーディーをシチリアの共同統治者として任命した。しかしその後すぐにコンラートは病気を患い、わずか26歳で急死してしまう。この時、後を継ぐはずであった息子のコンラディーノはわずか2歳であり、ドイツに居住していたことから、マンフレーディーは甥の為に摂政職を受け入れ、シチリア王領を実質支配し、1258年にはシチリア王として戴冠した。

しかし、その後、マンフレーディーはクレメンス4世を自身の領主として認めることを拒否したため、シュタウフェン家と家臣間の古くからの対立が再燃するのであった。

これにより、中世の二つの普遍的な権力闘争は新しい段階に入った。第一に、マンフレーディーは教皇の同盟国に対して何度かの勝利を収めることに成功した。しかし、クレメンスが1265年にアンジュー家のシャルル・ダンジュー(Karl von Anjou)にシチリア島を封土したことにより、戦いは大規模な紛争へと発展する。シャルル・ダンジューは野心的な君主であったが、その兄も名声と豊富な資金を持っていたルイ9世であった。シャルル・ダンジューはすぐに軍隊を編成し、1265年から66年の冬にかけてアルプスを越えてイタリアへ向けて進軍を開始した。教皇はシャルル・ダンジューにローマの門を開き、シュタウフェン家に対する軍事行動としてシャルル・ダンジューの行動にお墨付きを与えた。

教皇はシャルル・ダンジューの行動を正統化したばかりか、彼らの軍事行動を支援するために銀行から金を借りるべく、担保としてローマの教会の宝物を提供したのだ。この事実が示すとおり、この争いはシチリア王と教皇の優位性をめぐる論争だけではなかった。教皇が心から望んだもの、それはシャルル・ダンジューの進軍により、イタリア北部のシュタウフェン家に友好的な都市と南イタリアのシュタウフェン王朝に挟まれた環境から解放されることであった。

1266年2月26日、両軍はナポリの北東60kmにあるベネヴェント(Benevent)で相まみえた。マンフレーディーは当初、自身に味方する勢力がシャルル・ダンジューの北への前進を阻止するだろうと踏んでいた。その後はドイツ騎士団の戦闘力とイスラム軽騎兵隊の働きをマンフレーディーは信頼していた。多くの城や町があっけなくフランス人に降伏したことにより、マンフレーディーはイタリア人の忠誠心を大いに疑うこととなった。この状況下で、マンフレーディーは甥のコンラートが率いる援軍が到着するのをただただ待ちたくはなかった。

マンフレーディーは最前線にイスラム教徒の弓騎兵を配置した。彼らの後ろでは、1200人のドイツ騎士団による騎兵隊が待機していた。その後ろでイタリア人とイスラムの傭兵が続いた。マンフレーディー自身は予備隊であったイタリア貴族とともにその場に残った。マンフレーディー自身、彼らイタリア貴族の忠誠心を頭から信じていたわけではなかったが。

シャルル・ダンジュー側は、騎兵隊を3つの部隊に分割し、前線に多数の弓騎兵を配置した。おそらくマンフレーディー側と同じように、武装が不十分な歩兵が後衛を形成した。両軍とも約4,000人の兵力があったが、シャルル・ダンジューの軍勢はマンフレーディー軍よりも忠誠心が強く、協調性があった可能性がある。


中世で多く見られた戦闘と同様、騎士は著しく規律と協調を欠き、ただただ個人の騎士道精神のみを妄信し、勇敢さを示すために、目の前に敵が現れると間髪を入れず単独で攻撃を開始した。マンフレーディーのイスラム兵とシャルル・ダンジューのプロヴァンス兵は戦闘を開始し、すぐにドイツ騎士団がそこに加わった。

しばらくすると、シャルル・ダンジューの軍隊はあることに気づいた。マンフレーディー軍の騎士は、攻撃をするために腕を上にあげると、脇腹が守られておらず、がら空きになっていたのだ。シャルル・ダンジューの軍は敵軍をさらに押し込み、密集した状況を作りだすことで、敵兵の長い剣がうまく使えない状況を作った。そして、この状況下で自軍兵士は装備していた短剣を有効的に活用したのだ。

マンフレーディーの騎兵隊は、後続の軍隊が到着し、編隊を完了する前にすでに前進を開始しており、前に突出した格好になっていた。後続のイタリア兵は行軍のスピードが遅すぎ、前に飛び出した形となったシュタウフェン家の最強部隊は、この時すでにシャルル・ダンジューの主力軍と対峙しており、その動きを封じ込められることとなった。

マンフレーディーの予備兵は戦地への到着がかなり遅れていた。しかし実際には、敗色濃厚となった自軍の様子を見た予備兵はこの時までにほとんどが逃亡していたのだ。予備兵に見放されてもマンフレーディーは戦いを継続し、一部の護衛兵だけが主君の為に戦いに身を投じた。戦闘中、マンフレーディーは致命傷を負ってしまう。そして勝敗は決する。この戦争で導入されたシュタウフェン家側の兵3,600人のうち、生き延びたのはわずか600人だけであった。《ベネヴェントの戦い》と呼ばれるこの戦闘でマンフレーディーは命を落とし、シャルル・ダンジューがシチリア王位に就くこととなる。しかし、フランスによるシチリア支配は長くは続かなかった。シチリアにおけるフランス軍の抑圧的な支配により、後に《シチリアの晩祷》と呼ばれる事件が起こるのである。

welt.de, “Die deutschen Ritter trugen moderne Plattenpanzer. Aber es gab eine Schwachstelle”, 26.02.2022, Florian Stark, https://www.welt.de/geschichte/kopf-des-tages/article237151491/Untergang-der-Staufer-Die-Panzer-der-Ritter-hatten-eine-Schwachstelle.html

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