ヘルマン・グリンと空腹のライオン

ケルン

ライン川の分厚い流れに縁取られたケルンの街を歩けば、天を衝く大聖堂の偉容に誰もが目を奪われる。だが、その華やかな影に隠れた市庁舎の石壁には、かつて「聖職者の支配」という鉄鎖を断ち切らんとした市民たちの凄絶な執念が刻まれている。

十三世紀、静謐な祈りの場を野獣の唸り声が支配したあの夜、一人の市長が演じた絶体絶命の逆転劇は、単なる伝説ではない。それは、聖なる権威に抗い、自らの手で都市の運命を掴み取ろうとしたケルン市民の不屈の魂が昇華した歴史的勝利を表しているのである。

1266年、ケルンの支配権を握っていたのは、貴族や市民と血生臭い抗争を繰り返していたエンゲルベルト2世(Engelbert II.)大司教であった。彼には忠実な二人の律宗司祭(カノン)が仕えており、彼らは司教が飼う「権威の象徴」としてのライオンを慈しみ育てていた。

当時、市民の権利を守るべく大司教と論争を繰り広げていたのが、伝説的な市長ヘルマン・グリン(Hermann Gryn)である。

事件はある祝宴の日に幕を開けた。二人の司祭は市長を罠に嵌めるべく、数日間エサを与えず飢えさせたライオンの檻へと彼を誘い出した。

「食事の前に、美しい猛獣をお見せしましょう」という甘い言葉に乗せられ、市長が檻の前に立った瞬間、背後から荒々しく押し込まれた。

鉄格子の閉まる冷徹な音が響き、司祭たちは市長が食い殺される無残な結末を確信して暗闇でほくそ笑んだ。

檻の中、餓えた獣は低い唸り声を上げ、鋭い爪で石床を掻いた。ライオンが今にも飛び掛からんと身を沈めたその刹那、ヘルマン・グリンは驚くべき冷静さで応戦した。

彼は厚手のコートを左腕に幾重にも巻きつけると、抜き放った剣を右手に隠し、静かに機を待った。

獣が咆哮とともに躍りかかった瞬間、彼はマントを巻いた左腕をライオンの大きく開かれた喉奥へと深く突き立て、窒息に悶える獣の心臓を一閃、銀光とともに貫いたのである。

絶命した獣を後に、返り血を浴びた市長は静かに家へと引き上げた。直後に放たれた追っ手によって二人の司祭は捕らえられ、大聖堂に隣接する門にその首を吊るされたという。

一説には、この卑劣な司祭たちを絞首刑に処したのは、翌日ケルンを訪れてこの勇壮な話を聞いたルドルフ大帝(Rudolf I.)であったとも伝えられている。なお、ルドルフ大帝は1273年、このエンゲルベルト2世の手によってドイツ王として戴冠することになる。

この市長の勇気を記念して、1573年にケルン市は、企みに失敗した大司教とライオンの石像を市庁舎の回廊に設置した。

歴史の霧を晴らせば、ヘルマン・グリンという名は架空のものとされるが、モデルとなったリッチウィン・グリン(Richwin Gryn)という貴族出身の市長は実在していた。また、大司教エンゲルベルト2世もまた、実在の権力者である。

彼はケルンに対する大司教の支配を強化しようと貴族層と激しく対立し、1263年には捕らえられ20日間の投獄を経験している。さらに1271年まで、彼は同盟者であったウィルヘルム・フォン・ユリッヒ(Wilhelm von Jülich)伯爵の手によって、ニデッゲン城(Burg Nideggen)に幽閉されるという屈辱を味わった。

エンゲルベルトが捕らえられたニデッゲン城
(Source:burgenarchiev.de)

大司教位がジークフリード・フォン・ヴェスターブルク(Siegfried von Westerburg)へと引き継がれると、市民との対立はさらに激化し、1288年の「ウォリンゲンの戦い(Schlacht von Worringen)」という決定的な軍事衝突へと発展する。この敗北を経て、大司教による都市支配は事実上の終焉を迎えたのである。

今、市庁舎の回廊を見上げれば、そこには牙を剥く獣を屠る市長の姿が、誇り高き石像となって今も残されている。かつて市長が絶体絶命の檻の中で掴み取ったのは、単なる自らの命ではなく、権力に屈しない市民たちの輝かしい未来であった。街の喧騒の中に佇むこの像は、幾世紀を経た今も、自由を守り抜くために流された血と、その果てに勝ち取った独立の価値を、訪れる人々に静かに、しかし力強く語り続けている。

参考:

sagen.at, “Herr Gryn und der Löwe”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/Herr_Gryn.html

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