消えた少年十字軍 | ケルンから出発した子供の一団

ケルン

【ドイツの歴史】エルサレムを目指して出発した少年十字軍はどこへ消えたのか?

13世紀初頭のケルン大聖堂。ケルンは、ライナルト・フォン・ダッセル司教が東方三博士の聖遺物を大聖堂にもたらしてから、人気のある巡礼地となり、この聖遺物を一目見ようとするキリスト教信者の巡礼の対象となっていた。大聖堂の門前には常に多くの信者たちが集まっていたが、なかにはその巡礼者たちに嫌がらせをしたり、巡礼の邪魔をする不心得者が存在した。そのなかにニコラウスという名の10歳くらいの少年がいた。このニコラウス少年がある日不思議な体験をする。天使が彼のもとを訪れ、イスラム教徒から聖墓を奪還せよと言うのだ。

11世紀末以降、ローマ教皇はイスラム教徒を聖地から追い出すために十字軍を推進してきた。 1099年、エルサレムは征服され、聖地はキリスト教のもとに戻った。しかし、サラディンは1187年に都市を奪還。その後2回の十字軍によっても状況は変わることはなかった。

神秘的な体験をしたその日からニコラウス少年は自らの使命を悟り、行いを改め、聖地奪還のために仲間を募りだした。すると、このニコラウス少年のもとに志を同じくする多くの少年が集まってきた。そして1212年の復活祭の後、少年たちの一行はエルサレムへと向けて出発した。

この一行は武器も携帯せず、大人も含まれていなかった。太鼓、旗、十字架だけを持ってただただ南へと歩き出した。ケルンからエルサレムまでは最短距離を通っても4,000㎞の行程だ。仮に一日40キロ進んだとしても、旅程は3か月を優に超える。道中には物騒な地域も含まれ、武装もしていない子供たちによるこの冒険は自殺行為以外のなにものでもなかった。あえて危険に身を置くことが無条件の信仰を証明するためのものであったと考えていたようだ。この時代、人々の救いへの欲求は大きく、司祭たちが語る地獄での苦痛に対する恐れはさらに大きかった。こういった状況が子供たちを無謀な冒険へと駆り立てたと思われる。

同じ頃、ケルンから西に500km離れたフランス、オルレアン近くのクロイエ・シュル・ル・ロワール村(Cloyes-sur-le-Loir)の羊飼いの少年ステファンも不思議な体験をしていた。イエスがステファン少年の前に現れ、彼の使命について語ったのだった。ステファンは、ケルンのニコラウス少年と同じように、巡礼地に同行する仲間を集め始める。ここでもステファン少年に同行したいと考える少年たちが大勢集まった。歴史家が疑問視する数字ではあるが、一説には、ケルンのニコラスとオルレアンのステファンは合わせて数万人の同行者を集めたと言われている。

当時のケルンの年代記《Chronica Regiae Colonienses》等から、この一行の行動は大まかに把握されている。少年の一行はケルンからトリーアを経由してシュパイアーへと移り、そこからさらに南下している。少年たちにとって、この移動は相当骨の折れるものだったであろう。ケルンの年代記によると、アルプスを越える前に多くの子供が空腹と喉の渇きで死亡したという。バイエルンとオーストリアの年代記は、一行はブレンナー峠を経由してロンバルディアに到着したと記している。

ケルンから南へと下った少年たちは、ブレンナー峠を超え、ジェノバに到着した。

同年8月25日、少年十字軍はついににクレモナとピアチェンツァを経由してジェノバに到着。ジェノバ市の年代記には、約7,000人の男性、女性、子供が市にやってきたことを記している。一行は地中海に到着すると、その場に荷物を下ろし、そこで静かに待った。そして次の日も、その次の日も彼らはただ待ち続けた。何を待ったのか?

彼らは海が真っ二つに分かれるのを待っていたのだ。旧約聖書の出エジプト記のように、地中海が左右に分かれ、イスラエル人を率いたモーセのように歩いて聖地に到着できるものと信じていたのだった。しかし、目前に広がる穏やかな地中海は一行に割れる気配を見せない。少年たちはがっかりと肩を落とし、計画の変更を迫られた。この後の行動については仲間のなかでも意見が割れ、一行は分裂してしまう。

一部はマルセイユへと向かい、一部はローマへと移動した。比較的多人数の一団は、ピサとブリンディシ(Brindisi)でパレスチナ行きの船に乗り込んだという。目的地に到着することのできた子供たちはわずかであったが、彼らはついにパレスティナの土を踏んだのだった。そしてイスラム教徒の奴隷として売られた。フランスから出発した子供たちの多くもエジプトに到着したのち、アレキサンドリアの奴隷市場で売り払われたと言われている。世界を救いたいと願った子供たちは、故郷から遠く離れた地で奴隷として人生を終えたのだ。

結局、少年十字軍の参加者で聖地に到達したものはひとりもいなかった。一部はイタリアに滞在し、そこで使用人として働きはじめた。アルプスを越えた数千人のうち、帰路につけたものはほんのわずかであったという。幸福にも帰路につけた者も、地元では皆から嘲笑の的となり、悪意をもって迎えられた。希望に満ち、歌を口ずさみながら南へと旅立って行ったものは、裸足で、空腹で戻ってきたのだ。 子供たちだけで町を出て行くという話は、《ハーメルンの笛吹き男》を想起させる。この童話も史実がもとになっているとされるが、子供が失踪したとされる年代は1200年代後半。そのことから、ハーメルンで失踪した子供たちは少年十字軍に参加し、奴隷として売られたのではないかという説が現在でも根強く存在している。後の研究で、ハーメルンの子供たちのなかには、貧しさから逃れ、新天地を求めて東方植民に参加したという説が有力となっている。

少年十字軍は、神への信仰心、貧困からの脱出、冒険心への渇望・・・ 様々な動機が聖地奪還と結びついた結果生み出された悲劇であった。ある説では、当時の年代記にみられるラテン語の「peregrinatio puerorum」は「子供たちによる十字軍」ではなく、もっと広義の意味で捉えられるべきだとの主張もある。つまり、「男の子、子供」という表現は、広い意味で、使用人、羊飼い、メイドなど、騎士階級を除く下層階級を意味していた。つまり、「少年十字軍」というのは、下層階級、貧困層、売春婦などの大人も含む一団として捉える必要があるという指摘である。《ハーメルンの笛吹き男》の話にも、町を去ったグループの中には大人が含まれていたという説がある。中世都市の急激な成長は同時に貧困層を増やした。食い扶持がなく、居場所のない人々が子供を連れて聖地奪回の旅や東方植民に参加したとしても不思議ではない。

ドミニコ会やフランシスコ会の托鉢修道会が金持ちの傲慢さに抗議して、ほぼ同時期に設立されたのは偶然のことではない。当時は珍しくなかった飢餓と貧困。少年十字軍が物語っているのは、自らが置かれた困窮から脱出する為の必死の巡礼であったのかもしれない。

中世における貧困層が居場所を求めて出発した逃避行であったのかもしれない。

少年十字軍の物語は、1968年にポーランド人の監督、アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)によって《楽園への門:Gates to Paradise》という作品が作られている。

参考:

welt.de, “Für viele endete das Himmelfahrtskommando auf den Sklavenmärkten des Orients”, 19.02.2021, Oliver de Weert, https://www.welt.de/geschichte/article226670695/Kinderkreuzzug-Viele-landeten-auf-den-Sklavenmaerkten-des-Orients.html

wikipedia.de, “Kinderkreuzzug”, https://de.wikipedia.org/wiki/Kinderkreuzzug

sueddeutsche.de, “Kreuzzug der Abgehängten”, 30. März 2019, Josef Schnelle, https://www.sueddeutsche.de/politik/kinderkreuzzug-1212-1.4339928

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