ボーデ博物館

ベルリン

ボーデ博物館(Bode-Museum) はドイツ・ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)にある博物館のひとつであり、博物館島の一番東に位置している。建築家エルンスト・ フォン・イーネ(Ernst von Ihne)がデザインし、1904年に完成。この博物館建設のアイデアと収蔵する美術品を提供した美術史家であるヴィルヘルム・フォン・ボーデ(Wilhelm von Bode)の名前が現在の博物館の名前の由来である。博物館の見どころは、エジプトのコプト正教会関連の美術品、ビサンティン美術やラヴェンナから収集した中世イタリアゴシック期、初期ルネサンス期の彫刻など。また、後期ドイツゴシックの作品も多数展示されており、特にドイツ南部の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの作品が複数展示されている。また、絵画もベルリンの美術館からの貸与品を含め、充実したコレクションとなっている。

【フリードリッヒ3世像】アンドレアス・シュリューター(Andreas Schlüter)によるデザインとヨハン・ヤコビ(Johann Jacobi)による製作。ヤコビは、1661年にホンブルクで生まれた石膏像の製作者であり、1726年にベルリンで亡くなった。アンドレアス・シュリューターの仕事仲間であり、1700 年に作られた大選帝侯の騎馬像がヤコビの最も有名な作品である。

【聖ホモボルス、乞食、聖フランシスコと福音ベルナルディーノ、聖カタリナと王冠を頂くマリア】バルトロメオ・モンターニャ(Bartolomeo Montagna)はヴェネツィアで教育を受け、ヴィチェンツァで働いたルネサンス期の重要な画家。おそらくヴェローナのドメニコ・モローネに弟子入りしたと見られる。 1480 年に初めて言及され、1482 年にジェンティーレ ベッリーニやジョヴァンニ ベッリーニとともに、サン マルコ大聖堂 (数年後に火災で焼失) のために創世記と大洪水の絵を描くよう依頼された。 彼の初期の絵画には、アルヴィーゼ ヴィヴァリーニやアントネッロ ダ メッシーナのヴェネツィア絵画からの影響が見られる。

【聖母戴冠】(英:Coronation of the Virgin)シルベストロ・デッラクイラ(Silvestro dell Aquila)。クルミと針葉樹。15世紀末の作。オリジナルの色彩は大幅に失われており、玉座も部分的に補完されている。
シルベストロ・デッラクイラは、アブルッツォ州のラクイラで活躍したイタリア・ルネサンスの芸術家で、クアトロチェント後期の彫刻家である。若いころにどのような訓練を受けたのかは不明だが、その作風にはフィレンツェの彫刻の特徴が見える。

【聖母マリアと幼児】フランチェスコ・ヴェチェリコ(Francesco Vecellio)による1520年頃の作。絵画館から1821年に取得。
フランチェスコ・ヴェチェッリオ(1475年頃 – 1560年)は、イタリア・ルネサンス期のヴェネツィアの画家で、画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオの兄にあたる。軍人でもあり、ウィーンとヴェローナの戦いにも参戦し、その後、彼は画家としての活動を始め、後に木版画家としても働くようになった。

【聖バルトロメウスとゼノのそばで戴冠する聖母子】ジローラモ・ダイ・リブリ(Girolamo dai Libri)ヴェローナのサンタ・マリア・イン・オルガーノ(Santa Maria in Organo)にあるブオナリヴィ家(Buonalivi)の礼拝堂。ヴァザーリは、ジローラモとその作品についての説明の中で、わずか16歳の時に描いた最初の絵画作品について語っているが、それは実際にはもっと年上の年齢で制作されたと考えられる。1500年頃、ジローラモは結婚したが、妻はその直後に亡くなり、二人の子供を産んだこと以外はよく知られていない。 おそらくカンブレー同盟戦争とヴェネツィアの敗北後の1510年から1512年にかけてヴェローナを襲ったペストで亡くなったと考えられている。
聖バルトロメウスはバルトロマイとも呼ばれ、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人である。皮剥ぎの刑で殉教したといわれ、ミケランジェロ作、サンピエトロ大聖堂蔵の「最後の審判」に描かれていることでも有名。

【マリア被昇天】ピエール・ピッジェ(Pierre Puget)ジェノヴァ、大理石。1664年、65年の作品。【マリア被昇天】とは、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰。中世から聖母の被昇天はスペイン・イタリア・ドイツ等で崇敬されていたが、とくにバロック期以降盛んに信じられるようになり、教義とされるに到った。キリストが自らの力で能動的に「昇天」(ascensione、アッシェンシオーネ)したのに対し、聖母マリアは聖霊の力で受動的に昇天したので、「被昇天」(assunzione、アッスンツィオーネ)と呼称する。 
ピエール・ピッジェは、フランスのマルセイユに生まれたバロック期を代表する彫刻家である。ローマのパラッツォ・バルベリーニやフィレンツェのピッティ宮殿の天井画を描く仕事に参加するなど、絵画や建築の分野でも幅広く活躍したが、彫刻家としての名声が高まった。

【メディチ家の紋章】1650年頃のフィレンツェ、木材、オスカー・ハイナウアーからの寄贈
メディチ家の紋章に付けられた球体の由来はわかっていない。 最もよく語られる説では、メディチ家が薬屋から身をなしたという事実から、錠剤であるという説である。コインで覆われた盾を持つフィレンツェの両替商ギルドの紋章から着想を得たという説や、剣の打撃を弱めるために武器の盾に金具が取り付けられたという説などもある。 またユリは、フランスの国章(またはカペー王朝の紋章)であり、1465年にルイ11世によって授与されたものだ。

【教皇アレクサンダー6世の胸像】15世紀末、大理石。1945年に破損。1846年に取得。
アレクサンドル6世は、ボルジア家出身の教皇であり、ロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)としても知られる。ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であった。フィレンツェの宗教改革家、ジロラモ・サヴォナローラとも対立した。息子は、ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きな影響を与えたチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)であり、彼を右腕とし、一族の繁栄を画策した。

【フィリッポ・ストロッツィの胸像】(Filippo Strozzi)
ベネデット・ダ・マイアーノ(Benedetto da Maiano)、1475年頃、テラコッタ
ニッコロ・ストロッツィの後継者フィリッポ (1428-1491) は、当時最も裕福で最も強力な銀行家の一人であった。彼は家族と共にコジモ・デ・メディチの扇動によりフィレンツェを追放され、スペイン、パレルモ、ナポリで銀行業を学び、銀行家として成功した。後にフィレンツェに戻り、一族の宮殿としてストロッツィ宮殿(Cappella Strozzi)を建設。一族の埋葬地として、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の礼拝堂(ストロッツィ礼拝堂:Cappella Strozzi)も建設させている。ストロッツィの像は、このボーデ博物館所蔵以外に、ルーブル博物館にも所蔵されている。
製作者のベネデット・ダ・マイアーノは、ルネサンス期を代表する彫刻家・建築家であり、ファエンツァ大聖堂の聖サヴィヌスの墓碑、サンタ・クローチェ聖堂の説教壇の製作で有名。またフィリッポ・ストロッツィから依頼を受け、パラッツォ・ストロッツィの建築にも携わっている。

【聖母子と聖ドミニコと殉教者聖ペテロ】
フラ・アンジェリコ・ヴィッキオ(Fra Angelico)
1435年頃の作。木材にテンペラ。
フラ・アンジェリコは初期ルネサンスの画家であり、15世紀前半のフィレンツェを代表する画家であった。20代の頃にカルメル修道会が主催する信心会に入信した記録が残っており、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」の意。宗教的モチーフを題材とした絵画を描く才能に優れており、 ジョルジョ・ヴァザーリも、アンジェリコの描く聖人に賛辞を贈っている。この絵画でも、聖母子の背景には、フラ・アンジェリコも所属していたドミニコ会の重要人物である聖ドミニコと殉教者聖ペテロが見える。
聖ドミニコは、「グスマンの聖ドミニコ」とも呼ばれ、12世紀後半から13世紀のカトリックの修道士で、ドミニコ会の創設者である。カタリ派の異端者をどうにか回心させたいと祈っていたところ、聖母マリアが現れてドミニコにロザリオを渡したという逸話があり、そのためドミニコ会がロザリオの普及(ロザリオを使用した祈祷の確立)に貢献したとも言われている。ドミニコは南フランス、スペインを旅して説教してまわり、後にドミニコ会を設立。晩年には司教になるよう勧められるが3度拒み、司祭のまま死去。ドミニコは貧しい生活を送りながら、真理を求める一生を送ったといわれ、死後の1234年、聖人に列せられた。絵画では、マドリッド派の巨匠コエーリョが描き、プラド美術館に所蔵されている『グズマンの聖ドミニクス』が有名。

【聖母子】
パオロ・ウッチェロ (Paolo Uccello) フィレンツェ
1435年頃の作品。木材にテンペラ。
パオロ・ウッチェッロは、初期ルネサンスを代表する画家であり、遠近法を駆使した画家としても有名だ。しかし、あまりにも遠近法に固執し、その他の描写をおざなりにしたことで後年批判を受けることも多い画家である。この絵画には遠近法の痕跡はなく、この作品は、フィレンツェの彫刻家によって考案された半身像「聖母子」と、金地に描かれたビザンツのイコンとを組み合わせたものであり、ルネサンスが突然の革命ではなかったことの証左でもある。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のフレスコ画『ジョン・ホークウッド』(John Hawkwood)、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の『大洪水と終息』、ロンドン、ナショナルギャラリーの『サン・ロマーノの戦い』三部作が特にウッチェロの傑作として有名。

【聖母子と天使】
ジョルジョ・スキアボーネ (Giorgio Schiavone) 1456/60 年頃の作。木材にテンペラ
ジョルジョ・スキアボーネは、北イタリアとダルマチア(現クロアチア)で活躍したクロアチアのルネッサンス画家。ジョルジョ・スキアボーネはパドヴァ学派の重要人物であり、彼の作品にはドナテッロやアンドレア・マンテーニャの影響が見られる。 ダルマチアでは画家としての活動の記録はないが、パドヴァで影響力のある工房を経営していた彼の師であり養父であるフランチェスコ・スクアルチョーネのもとで働き、キャリアを積んだ。
この作品は、両側に二人の聖人を描いた三連祭壇画の中央パネルであった。この作品も、ドナテッロにインスピレーションを得て作られた。

【ルシファーを倒す大天使ミカエル】 (The Archangel Michael Defeating Lucifer)
ロレンツォ・ヴァッカロ(Lorenzo Vaccaro)ナポリ、1685/1700 シルバー、ブロンズ、ジャスパー
果樹の木で作られたベース、銀製の金具と碧玉石付き。1978年に取得。
ロレンツォ・ヴァッカロは、ナポリ生まれのイタリア後期バロック期の彫刻家。 息子ドメニコ・アントニオ・ヴァッカロ(Domenico Antonio Vaccaro)も彫刻家となった。

[上部] 【戴冠する父なる神】(Thronender Gottvater)
ミヒール・コクシー(Michael Coxcie)。メッヘレン、1557~1559年、オーク材
スペイン国王フェリペ 2 世のためにヤン・ファン・エイクが描いたヘントの祭壇画の模写
1823年に取得

[下部] 【神秘的な子羊の礼拝】(Anbetung des mystischen Lammes)
ミヒール・コクシー(Michael Coxcie)。メッヘレン、1557-1559 オーク材
スペイン国王フェリペ 2 世のためにヤン・ファン・エイクが描いたヘントの祭壇画の模写
1823年に取得
ミヒール・コクシーはフランドルの画家であり、「フランドルのラファエル」との異名をとる。メヘレンで生まれ、ブリュッセルでベルナールト・ファン・オルレイの弟子になった。ローマ滞在中に、フレスコ画の技術を学び、ローマのサンタ・マリア・デッラニマ教会の礼拝所の壁画を描いている。イタリアで高い評価を得て、メヘレンに戻り、フェリペ2世の叔母で、ネーデルラント17州の総督を務めたマリア・フォン・エスターライヒの宮廷画家を務めた。美術品コレクターとして知られるフェリペ2世の命で「ヘントの祭壇画」の模写を行ったが、この作品もヤン・ファン・エイクの作品の模写である。

【アッシジの聖フランチェスコの生涯の場面を描いた祭壇画】 (Retabel mit Darstellungen aus dem Leben des hl. Franz von Assisi)
パスキエ・ボルマン(Pasquier Borman)のサークル
ブリュッセルで活動 1510 ~ 1536 年
1515/20 |アイヒェンホルツ
1992 年に取得 |リーゼロッテとゲルト・ボレルトによる寄贈品 |彫刻コレクション | Inv. 92/9

1520年頃のオスナブリュック
【聖なるキュメルニス】 (St. Kümmernis)
オーク材、
ほぼオリジナルバージョン
リベラタ(Liberata)とも呼ばれるキュンメルニスは、キリストへの愛のゆえに異教の父親によって十字架につけられた。
1916年に取得
彫刻コレクション | Inv. 7727

【マグダラのマリア】(St. Maria Magdalena)
ヘンリック・ファン・ホルト(Henrick van Holt)
カルカー(Kalkar)1506-1545/46 。1530/40頃 オーク材。1993年に取得。
ヘンリック・ファン・ホルトは、オランダとの国境に近いカルカー市で生まれたが、そこではほとんど仕事の依頼を受けることはなく、 隣接するクサンテンで聖ヴィクトル大聖堂の支部から石と木の両方の彫刻で重要な製作依頼を受けたと言われるが、この彫刻家については多くは伝わっていない。クアハウス・クレーフェ博物館(Museum Kurhaus Kleve)所蔵の聖ローレンティヌス像が有名。

【聖マルティン】
作者不明。フランス 1510/20 年頃。1984年に取得。
石灰岩、古いバージョンの一部。元々は聖人がマントを分け合った物乞いも描かれていた。

【パリの聖ディオニュシウス】 (St. Dionysius)
アントワーヌ・ル・モワチュリエ (Antoine Le Moiturier)
1460/70年。石灰岩、オリジナル作品の一部。
アントワーヌ・ル・モワチュリエは、ディジョンのブルゴーニュ公に伝えていた。
パリのディオニュシウスは、聖ドニ、サン・ドニとも呼ばれるキリスト教の殉教者で、カトリック教会の聖人である(フランスの都市サン=ドニの名前の由来)。3世紀のパリの司教で、250年頃に殉教したとされる。フランスの守護聖人であり、十四救難聖人の一人としても知られる。
ディオニュシウスは、ルテティア(現在のパリ)近郊で布教を行い、多くの人々を改宗させたために異教の僧侶の怒りを買い、ドルイドの聖地であるパリ近郊の最も高い丘で斬首刑に処せられた。この丘は、「殉教者の山」という意味でモンマルトルと名付けられた。中世イタリアの年代記作者であるヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)による『黄金伝説』によると、ディオニュシウスは首を斬り落とされた後、自らの首を拾い上げて、歩きながら説教を行ったという。彼が歩みをやめ絶命した場所には礼拝所が建てられ、サン=ドニ大聖堂になり、歴代フランス国王が埋葬される場所となった。

【聖ディアコン】(Heiliger Diakon) ディアコンは、助祭の意であり、聖ディアコンは、聖ローレンティヌス(聖ロレンツ)を指す。殉教者、聖ローレンティヌスは、教皇シクストゥス2世の助祭であり、ローマ皇帝から要求された教会の宝物をすべて貧しい人々に配った。怒った皇帝は、ローレンティヌスを巨大な網に挟み、焼き殺している。リーメンシュナイダーによる同聖人の像は、ニュルンベルクのゲルマン国立博物館にも展示がある。
ティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider)、ハイリゲンシュタットの工房、
1460~1531年頃の作。ヴュルツブルク。
リンデンウッド、タウバービショフスハイムのオリジナルバージョン。1896 年に取得

【歌って演奏する天使】 (Angels Singing and Playing)
ティルマン・リーメンシュナイダー、ハイリゲンシュタットの工房
1505年頃 ライムウッド。1889 年に取得 。
キリスト教における天使は神の使者であり、神の臨在の表現であると考えられている。雲の帯もこの後、天使を統一するために彫られました。このレリーフの天使たちは皆、アルバとよばれる典礼用の祭服を身につけていることから、これはもともとイエス誕生のシーンであった可能性が考えられる。天使たちが、赤子イエスが生まれた馬小屋の屋根の上で『天のいと高きところには神に栄光あれ』と歌っているシーンとも見て取れる。この句は、ルカ福音書 (ルカ 第2章1-14節) によるキリスト生誕に由来する聖句で、典礼中の歓喜の歌として歌われている。

【ラヴェンナのサン・ミケーレの後陣モザイク】
(Apsismosaik Chiesa di San Michele in Africisco)
ラヴェンナ、545/546 および 19 世紀、カラーモザイク石、モルタル
1843年にプロイセン王フリードリヒ ヴィルヘルム4世によって取得。
1843年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ラヴェンナのサン・ミケーレ教会の遺跡から初期キリスト教の後陣のモザイク画を購入した。ベルリンに輸送される前に、モザイク画家のジョバンニ・モロ(Giovanni Moro)によってヴェネツィアで修復されることになったが、モロはそれを復元する代わりに完全なコピーを作成した。
1861年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が亡くなったとき、このモザイク画は長期間保管されたままでした。 追加修復作業を経て、1904年に現在のボーデ博物館の一室で最終的に組み立てられた。しかし、第二次世界大戦中にこの作品は深刻な損傷を受け、1950年からさらなる修復作業を受けた。
後陣の楽園のような草原の風景の真ん中にはキリストが座っており、その両側に大天使ミカエルとガブリエルが配置されており、最後の審判の場面が描かれている。ヨハネが黙示録で描写しているように、キリストは大天使とラッパを吹き鳴らす7人の天使の間で、玉座に座って人々を裁いている。

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