謎多き美貌の王妃 ー エジプト女王ネフェルティティの胸像

ベルリン

ベルリンの新博物館に所蔵されたアメンホテプ4世妃の胸像

ベルリンを流れるシュプレー川の中州には、「博物館の島」(Museumsinsel)と呼ばれ人気観光地がある。この島には、5つの博物館があり、それぞれ非常に貴重な展示品を所蔵している。その博物館群のひとつ、「新博物館」(Neues Museum)には、毎年100万人以上の観光客が見学に訪れる展示品が飾られている。それこそが、3000年以上前に製作された色付きの胸像、ベルリンの至宝、「王妃ネフェルティティの胸像」である。

「博物館の島」にある「新美術館」(Source:museuminsel-berlin.de)

かつて保険会社の評価で、300億円以上の価値が付けられたこの胸像は、1912年にエジプトのアマルナで発掘調査中に、ドイツの考古学者ルードウィヒ・ボルハルト(Ludwig Borchardt)により、トトメス1世(Thutmosis)の彫刻家のアトリアと思われる遺構で発見された。 ルードウィヒ・ボルハルトは、12月6日の自身の日記に「素晴らしい作品だ。言葉で表すことはできない。見てみなさい。」と興奮気味に記している。ネフェルティティは古代エジプトの3大美女とされ、かつてアドルフ・ヒトラーも、この胸像を「真の至宝」と称している。

アクエンアテン妃、ネフェルティティの胸像 (Source: smb.museum)

エジプトの美しき王妃ネフェルティティは、この神秘的な胸像によって世界中に知られている。「ネフェルティティ」とは、「美しき者、来たれり」という意味であり、世界史史上、最初に一神教を唱えたアクエンアテンの妻である。しかし、この王妃については、まだ知られていないことも多い。エジプト史上、最も強力な権力を誇った女性は、紀元前1338年に突如として表舞台から消え去ったのだ。

紀元前1350年、アメンホテプ4世は、わずか12歳の若さでエジプトの王位に就き、ファラオとなったのだった。その少し前に、彼はいとこネフェルティティと結婚している。王は当初、母親のテジェ(Teje)の指導を受けていた。

その青年ファラオは、政治的支配者というよりは、陰謀家であり哲学者であった。肖像画に見えるアメンホテプ4世は、変形した頭、不自然に伸びた首、たるんだ胸、太鼓腹、そして極端に細い足い人物を示している。これらの症状から、医学史家は彼が下垂体腫瘍に苦しんでいたのではないかと推測している。

しかし、これらの身体的に不利な特徴は、紀元前1345年に、アメンホテップがエジプトの宗教改革に着手する際には、一切の妨げにならなかったようだ。主神アメンを崇拝する多神教の代わりに、太陽の円盤「アトン」を崇拝の中心とする厳格な一神教を推し進めたのだった。この太陽神はファラオ夫婦にのみ自らを明らかにするため、以前のように司祭が神の仲介を行う必要なかったのだった。神権(とりわけカルナックのアメン神殿の神権)は自分たちの特権を失うことを恐れ、大きな抵抗を示したので、ファラオと司祭の間に大きな緊張が走った。

アメンホテプ4世(Source:doguscankadioglu.wordpress.com)

アトン哲学の背景には、明らかにネフェルティティ女王の存在があった。彼女はエジプトの社会変革に積極的に参加し、これまでの常識を超えた役割を果たした。その証左として、カルナック近くのアトン神殿では、ネフェルティティは戦争囚人の髪の毛を掴んで、斧で殺害するファラオの姿で描かれている。

アメンホテプ4世は、自身を「アクエン・アトン」(アトンのしもべ)と呼び、アクナトンという名でよく知られている。既得権益を守ろうとする司祭たちに邪魔されずに改革を推し進めるため、王室は首都テーベを離れ、アトンに敬意を表して中部エジプトに建設された「アチェットアトン」(アトンの地平線)、すなわち今日のエルアマルナへと移されたのだった。他の神々を祀る神社はすべて閉鎖されたのだった。ネフェルティティはファラオに6人の子供を産んだ。全員が娘であった。アメンホテプ4世には、、他に少なくとも5人の側室があった。そのうちの一人、キジャ(Kija)は、紀元前1335年頃にツタンカーメン王を産んでいる。

アクエンアテンによる宗教改革が人々に支持されていないことは、賢明なネフェルティティには明らかだった。一部の貴族と官僚機構の上層部だけが新しい宗教を受け入れたが、それもファラオに不快感を与えない為のうわべだけの取り繕いであった。ネフェルティティは、自分だけの世界に浸るアクエンアトンの関心を現実の政治問題に向けるよう試みたが、それも無駄に終わった。

紀元前1338年頃、娘のマケトアテン(Maketaton)が産褥で亡くなった時、アクエンアテンとネフェルティティの間には確執があったと思われる。この頃、廷臣のスメンクカーラー(Semenchkare)はアクエンアテンに大きな影響を与えていた。一説には、二人は親密な関係にあったとも言われている。ネフェルティティは、アメン神権がスメンクカーラーがアメン神権の背後で蠢動しているのではないかと疑い、クーデターによる排除を考えていたが、その試みは失敗に終わった。

このセオリーは、紀元前1338年になぜネフェルティティが突如として公の場面から完全に姿を消すことになったのか、その説明になるだろう。アクエンアテンは、彼女の痕跡を消しさるよう命じたのだった。ネフェルティティに敬意を表して建てられたすべての彫像の取り壊しと公共の建物に刻まれた彼女の名前を削除するよう、アクエンアテンは命じた。しかし、紀元前1334年にアクエンアテン自身が早世したことにより、このファラオの命令が全国に実行されることはなかった。

ネフェルティティが死亡する前の数年間については、ほとんど資料が残っていない。 彼女はアクエンアテンの近くで暮らしており、ツタンカーメンの治世3年目、つまり1332年に、眼の感染症で死亡したと見られている。最近の研究では、以前から言われていた推測とは異なり、彼女が宮廷の陰謀の犠牲者となったり、それで早世したりしたことはなかったことが証明されている。

そのネフェルティティの胸像がベルリンにある理由は、20世紀初頭に遡る。1911年から1914年にかけて、ドイツ・オリエント・ソサエティ(Deutsche Orientgesellschaft)は、今日のアマルナ市に近い古代都市アチェッタトン(Achet-Aton)の南部地域の発掘権を獲得した。アチェタトンは、アクエンアテンとネフェルティティの治世中、エジプトの首都だった場所だ。

この地域には芸術家のアトリエが複数存在し、そのうちの1つでネフェルティティの胸像が発見された。胸像は、発掘責任者であったルートヴィッヒ・ボルハルトの下で回収され、他の発掘品と一緒に、ドイツ発掘チームに授与されている。胸像は、発掘チームに資金提供を行っていたベルリンの実業家ジェームズ・サイモン(James Simon)の手に渡り、サイモンはこの貴重な発掘品をベルリンのエジプト博物館に永久貸与し、後に同博物館に寄付している。エジプト政府はこの胸像の返還や、他の貴重な発掘品との交換などを持ちかけ、長年交渉を続けていたが、1933年に交渉は決裂している。

胸像を発見したルートヴィッヒ・ボルハルト(Source:zeit.de)

第二次世界大戦中、ネフェルティティの胸像を含むエジプト考古学博物館の展示品は、最初ベルリン動物園の地下塹壕で、後にハルツ山地のカイゼローダ製塩所(Saline Kaiseroda)で保管され、破壊を免れた。戦後、アメリカ軍によって一時没収されたが、1956年、ネフェルティティの胸像はベルリンに戻っている。2009年10月16日に新博物館が開館すると、ネフェルティティの胸像もそこで展示されることとなった。以来、この胸像は、3000年前の美貌の王妃の姿を今日に伝え、訪問する者を魅了し続けている。

参考:

welt.de, “Der geheimnisvolle Tod Nofretetes”, Jan von Flocken, 07.12.2007, https://www.welt.de/kultur/history/article1438196/Der-geheimnisvolle-Tod-Nofretetes.html

welt.de, “Berlin will Nofretete nicht ausleihen”, 30.10.2007, https://www.welt.de/regionales/berlin/article1313825/Berlin-will-Nofretete-nicht-ausleihen.html

welt.de, “Warum die Nofretete-Büste legal in Deutschland steht”, Berthold Seewald, 25.08.2011, https://www.welt.de/kultur/history/article13563657/Warum-die-Nofretete-Bueste-legal-in-Deutschland-steht.html

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