マグデブルクの慈悲深い王妃 | エドギダ

マグデブルグ

【ドイツの歴史】神聖ローマ皇帝オットー1世の最初の妻

マグデブルグの中心に位置する大聖堂。1209年から 1520年にかけて建設されたドイツ最初のゴシック大聖堂であり、正式名称を聖マウリティウス・聖カタリーナ大聖堂(Dom St. Mauritius und St. Katharina)という。マグデブルクは、初代神聖ローマ帝国皇帝オットー1世が、皇帝に即位する前に暮らした町であり、現在大聖堂が建っている場所には、かつてはオットーの宮殿が存在していた。この大聖堂には、オットー1世と最初の妻エドギダの棺が納められていることで有名である。

マグデブルク大聖堂(筆者撮影)

オットー大帝の最初の妻であるエドギダ(Edgitha)の墓は、マクデブルク大聖堂で発見されていたが、当初は模擬墓と考えられていた。 2008年11月、考古学者は、大聖堂の発掘調査中、装飾がされた棺の中に長さ70cmの鉛の棺を発見した。

ドイツとイギリスの科学者たちは、骨、歯、織物を広範囲に調べ、それが女王の遺骨である可能性が最も高いという結論に達した。しかし、遺骨は完全な形で保存されていたわけではなく、 200以上の骨のうち約40ほどしか見つからず、しかも頭蓋骨はほぼ完全に失われていた。研究者たちは、骨格の一部が聖遺物として持ち去られたのではないかと推測している。946年7月に最初に埋葬され、1510年にこの墓に再埋葬された。2010年10月22日、彼女の骨は銀メッキのチタン製の棺に入れられ、1510年当時に作られた石棺に埋葬された。

エドギダの棺、ドーム博物館蔵(筆者撮影)

エドギダは、910年頃、イングランドのエドワード長兄王(Edward the elder)とその2番目の妻エルフフェの間の娘としてウィンチェスターで生まれた。エドギダはアルフレッド大王の孫娘であり、幼いころからラテン語と英語の読み書きを教えられていた。 エドギダの母のエルフレダ(Elfleda)は4世紀に北ハンブリアに住んでいた聖オズワルドの子孫であり、エドギダもウィルトン修道院で育てられたと言われている。エドギダが10歳のとき、母親が亡くなり、父親もその4年後に亡くなった。そして異母兄弟のエセルスタン(Ethelstan)がウェセックスの王となった。ハインリヒの息子オットーの元に花嫁候補として2人の妹エドギタとエルギフがドイツへと送られ、オットーはエドギダを自身の妃に選んだ。オットーの「一目惚れ」であったと言われている。

19歳でマクデブルクにやって来たエドギダは、929年にオットーと結婚した。オットーとエドギダはザクセン州のクヴェトリンブルクで結婚し、リウドルフ(Liudolf)とリウトガルト(Liutgard)の子供たちをもうけている。オットーはエドギダを愛し、結婚の贈り物として、彼女にマクデブルク市(からの収入)を贈っている。これは後にマクデブルク教区の経済的基盤となっていく。エルベ河畔のマクデブルクは、エドギダの出身地イングランド南部の故郷、イッチン(Itchen)河畔のウィンチェスターを思い出させたため、彼女のお気に入りの滞在場所であったと思われる。エドギタは戦争目的以外での遠征では、常にオットーに随行した。

また注目するべきは、王妃としてのエドギダの地位である。ヴィトキント・フォン・コルベイ(Widukind von Corvey)の年代記では、エドギダの皇妃としての戴冠式については言及されていないが、ティトマール・フォン・メルゼブルグ(Thietmar von Merseburg)によると、オットーの戴冠式後の別の式典で、エドギダには油が注がれたという(塗油の儀式)。これにより、エドギダはオットー1世と共に帝国の共同統治者になった。これは、女王が政治的な役職を持っていなかった他の帝国とは大きく異なっていた。エドギダは、帝国文書に関する仕事であったり、修道院の建設や、教会への寄付、慈善事業などに多くの時間を費やしていたと思われる。

ハインリヒ1世の未亡人、マチルデが夫の菩提を弔うために建設したクヴェトリンブルク修道院に対抗して、エドギタとオットーの夫婦は、937年、マクデブルクにマグデブルク大聖堂を建立している。エドギタは同郷の聖人であり、また母方の先祖であるノーサンブリアのオズワルドを深く崇敬し、結婚後はオズワルドへの崇敬をドイツに広めた。その影響で、ザクセン公国に存在する修道院のいくつかは聖オズワルドに捧げられている。

エドギダはわずか36歳で亡くなったが、生涯にわたって、貧しい人々や病気の人々に対する慈善活動で人々から尊敬されていた。 エドギタはマクデブルク大聖堂に埋葬されたが、後に何度か埋葬され直した。 1209年に建てられたゴシック様式のマクデブルク大聖堂では、1510年に礼拝堂の前にある石造りの墓に埋葬された。文書は、エドギダの遺体が少なくとも4回埋め戻されたことを示している。

エドギダの遺体が見つかった棺は、保護上の理由から使用できるものではなかったので、新たな棺をめぐるコンペティションが開催され、ドレスデンの彫刻家コルネリア・トゥンメル(Kornelia Thümmel)のデザインが採用された。

生前の慈悲深いエドギダを表すエピソードとして、《エドギダと雌ジカ》(Editha und die Hirschkuh)という伝説が伝わっている。

ある夜、エドギダが夫の不在中にマクデブルクにいたとき、王室の家屋から、ドアをノックする大きな音が聞こえた。ノックの音を聞いたエドギダは、誰が来たのか確認するために使用人を送った。すると、なんと野生の雌シカが、大胆不敵にも、開いたドアからエドギダの部屋へと入ってきた。雌シカは女王の前に座ると、何かを話したいようにエドギダをじっと見つめた。

エドギダは雌シカの様子から、何かに苦しんでいるのではないかと考えた。シカは部屋を出て行ったが、エドギダは猟師を呼びつけると、雌シカの後を追わせた。すると、雌シカは飛び上がって、エルベ川の方向へと走っていった。道はエルベ川を越えて反対側の森へと続いていたが、その森の奥深くで、猟師は縄にかかって苦しんでいた雄シカを見つけた。猟師はその雄シカを罠から解放してやった。雄シカと雌シカのつがいは喜んで森へと帰っていったのだった。

エドギダは、教会や修道院に寄付を行っており、その善行によって、生前から聖人のような扱いを受けていた。心優しい人物であったと伝えられており、森の動物にさえ、その慈悲を示す、優しく敬虔なその人柄を表すエピソードである。

オットー1世とエドギダ。二人の結婚はもちろん政略結婚であったが、当時としては珍しく、相思相愛の関係にあったと言われる。エドギダが亡くなった時、オットーは心から悲しんだという。オットーは6年後に、ブルゴーニュ公国のアデルハイドと結婚しているが、死の直前、エドギダと同じ場所に埋葬するよう言い残していることから、いかにエドギダを愛していたかをうかがい知ることができる。

参考:

welt.de, “Königin Editha wird neben ihrem Otto bestattet”, 22.10.2010, https://www.welt.de/kultur/history/article10473684/Koenigin-Editha-wird-neben-ihrem-Otto-bestattet.html

the guardian.com, “The life of an Anglo-Saxon princess”, Michael Wood, https://www.theguardian.com/science/2010/jun/17/archaeology-forensicscience

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