将軍と若き日の失恋

ケルン

ケルン大聖堂から南へ400mほど歩くと、アルター・マルクト(Alter Markt)という広場に出る。そこには、ケルンに所縁が深い17世紀の将軍、ヨハン・フォン・ヴェルト(Johann von Werth)の像がある。ヨハンはケルン市民から愛情をこめて、ヤンという愛称で呼ばれている。

ヨハン・フォン・ヴェルト像(Source:wikipedia.de)

彼の出生地については、諸説があり、はっきりしたことが分かっていない。オランダのリンブルフ地方にヴェールト(Weert)という地名があるので、この地方の出身という説もある。ヨハンは若い頃、当時の慣習に従って、ビュットゲン(Büttgen)近くの両親の農場で働かなければならなかった。父親が死んだことにより、家族の経済状況は悪化し、ヨハンは母親と8人の兄弟と一緒に小さな家に引っ越さなければならず、その後、農場の使用人として働いている。しかし、学校教育を受けておらず、読み書きを学ぶ機会のなかったため、ヨハンの幼少時代に関してわかっていることは少ない。ヨハンはヤンという愛称で呼ばれていたことがわかっている。

ヤンこと、ヨハン・フォン・ヴェルトの生涯に関して、ケルンとその周辺地域では、次のような伝説が語られている。貧しい農民であったヤンは、メイドの女性グリエットに恋をした。そして思い切ってプロポーズを行ったが、グリエットは貧しい農民のヤンよりもいい人と出会えると思っていたので、彼のプロポーズを拒否した。「ヤン、あなたは自分を誰だと思っているの?結婚してわたしに何を与えてくれるの?あなたは私の結婚相手としてふさわしい人ではありません。」厳しい口調で拒絶されたことにひどく打ちひしがれたヤンは、ちょうどその時、町で行われていた、兵士のリクルーターの誘いに乗って、軍隊に入隊した。

ヤンは有能な兵士となり、戦場では運にも恵まれ、将軍にまで上り詰めた。戦場では、度々、重要な勝利をものにしたのだった。ヘルマンスタイン要塞(Feste Hermannstein)を落とした後、彼はセヴェリンスター門(Severinstor)を通って、自身の軍隊と共にケルンへと入った。彼は、かつて惚れ込んだグリエットが、町の屋台で果物を売っているのを発見した。ヨハンは馬を彼女の屋台のそばで降り、帽子を脱いで彼女に優しく微笑んで言った:「グリエット、君なのか?一体誰にこんなことが成し遂げられるだろうか?」。それに対してグリエットは答えた。「ヤン、あなたは将軍になったのですね。あなたがこうなると誰に分かったでしょう?」。それを聞くと、ヤンは馬にまたがり、グリエットの前から去って行った。

ヤンが凱旋したセヴェリンスター門(Source:wikipedia.de)

この伝説のとおり、農民であったヤンは軍隊に入隊し、兵士としてのキャリアをスタートさせている。1610年頃、ヤンはアンブロジオ・スピノラ将軍(General Ambrosio Spinola)の下で傭兵としてスペイン軍に加わり、次の年に彼は騎兵隊に仕えて一気に将校まで昇進している。 1620年、彼は三十年戦争初期の一大決戦である「白山の戦い」(Schlacht am Weißen Berg)にも騎兵として参加した。 翌年、ヤンはケルン大司教の陣営に加わり、数々の業績により騎兵隊長に昇進している。

その後、ヤンはカトリック側でティリー将軍(Tilly)の下で戦い 1632年には指揮官に昇進。その後の数年間、プロテスタントのスウェーデン軍に対して数回の勝利を収めたため、1634年2月にヘリーデン近郊(Herrieden)でスウェーデン軍を破った後、軍曹に昇進した。

1634年9月6日のネルトリンゲンの戦い(Schlacht bei Nördlingen)で、ヤンと彼の騎兵隊は、この戦いにおいて、戦局を有利に変更させることに成功。彼の雇用主であるバイエルンのマクシミリアン1世(Maximilian I.)は、この戦いでのヤンの働きに感謝して、ヨハンを陸軍元帥に昇進させている。皇帝フェルディナント2世(Ferdinand II.)も、この戦いでの勝利に感謝し、1635年4月にヤンを男爵に叙している。

ネルトリンゲンの戦い(Source:wikipedia.de)

1636年8月、彼は長い間計画されていたフランス北部へのハプスブルク家の軍隊に従軍し、バイエルン騎兵隊に参加した。スペイン帝国軍と協力して、ここでも目覚ましい働きを見せている。

1637年1月、フランス軍に占領されていたコブレンツのエーレンブライトシュタイン要塞は、前年から帝国軍に包囲されていたが、ヘッセンの将軍ペーター・メランデル・フォン・ホルザッペル(Peter Melander von Holzappel)は、この要塞への救援を試みた。対する帝国側のヨハン・フォン・ヴェルトは、フランスに対してすでに30回以上の勝利を収めていたため、フランス軍対して恐怖心を与えていた。ヤンはヘッセン軍を打ち負かし、要塞に対する包囲を継続。籠城するフランス軍を兵糧攻めにし、1637年6月28日に要塞を陥落させている。

コブレンツのエーレンブライトシュタイン要塞 (Source:wikipedia.de)

またしても大勝利を収めたヤンであったが、この後、フランス軍にとらえられ、フランスで数年間の捕虜生活を送っている。4年以上経って、敵将の将軍との捕虜交換が行われ、解放されたときには、ケルンやミュンヘン、アウグスブルクで、英雄として盛大な歓迎で迎えられている。1644年3月31日、ヤンは将軍に昇進した。件の《ヤンとグリエット》の伝説は、ヤンがコブレンツの エーレンブライトシュタイン要塞をフランス軍の手から奪い返し、ライン中流地域から下流のケルンへの船上貿易が再会された後、ケルンに凱旋入城した時代に設定されている。

ヤンは1650年にキャリアを終え、ボヘミアの町ベナテック城(Benatek)に引退した。1652年9月12日に敗血症で亡くなり、ノイ ベナテック(Neu Benatek)のマリア降誕教会(Maria-Geburt-Kirche)の地下室に埋葬された。戦争に参加することで、一介の農民から将軍にまで上り詰めたヤンであったが、私生活でも生涯で3回の結婚をし、波乱万丈の一生を送った。

チェコのベナテック城(Source:wikipedia.de)

1838年、カール・クラマー(Karl Cramer)という作家によって、《ヤンとグリエット》(Jan und Griet)という詩が作られ、この物語は広く知られることとなった。ケルンでは、1954年以来、毎年カーニバルの初日は、この 《ヤンとグリエット》 の歴史劇で幕が開き、ヤンの記念碑の前でダンスが行われる。ヤンの記念碑には、ヤンが愛を告白する場面と、将軍としてグリエットと再会する場面の装飾が施されている。ヤンがグリエットに愛を伝える場面に描かれている鶏と牛は「愚かさ」を、孔雀は「虚栄心」を表しているという。

今日、多くの町で、ヤンに因んで名づけられた通りがある。フライブルク(Freiburg)とミュンヘン(München)、ケルン(Köln)、グレーヴェンブローホ(Grevenbroich)、トロイスドルフ(Troisdorf)のその名がつけられた通りがあり、ドルマーゲン(Dormagen)やガイレンキルヒェン(Geilenkirchen)にも《ヤン・フォン・ヴェルト通り》という道が存在しており、ドイツ各地で、ヤンは人気を博している。

参考:

koelnreporter.de “Jan von Werth un et Griet – Liebe op Kölsch”, https://www.koelnreporter.de/paenz/sagen-und-maerchen/jan-von-werth.html

janvonwerth.de “Johann Graf von Werth”, https://janvonwerth.de/historie/johann-graf-von-werth/

museenkoeln.de, “125 Jahre Jan von Werth-Brunnen”, R. Wagner, https://museenkoeln.de/portal/bild-der-woche.aspx?bdw=2009_09

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