聖ミヒャエリス教会の幽霊

リューネブルク

リューネブルクでは、聖ヨハニス教会、聖ニコライ教会、そして聖ミヒャエリス教会(聖ミカエル教会とも)が多くの観光客の関心を集めている。 この3つの教会はすべて、レンガ造りのゴシック様式で建てられており、リューネブルクを代表する観光スポットだ。その中でも聖ミヒャエリス教会の歴史は、リューネブルクの歴史と密接に結びついている。この教会は旧ベネディクト修道院教会であり、その設立を14世紀にまでさかのぼる。

ミヒャエリス学校は、まずミヒャエリス修道院の、そして後にミヒャエリス教会の学校となり、14世紀から1849年まで存在していたリューネブルクで最古の学校であった。ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)がこのミヒャエリス学校を卒業したことから《バッハ教会》と呼ばれることもある。バッハは1700年から1702年までの2年間、この学校の寄宿生として過ごし、教会の聖歌隊の歌手であった。また、バッハはリューネブルクにいる間に楽器を研究したことがわかっているので、ここでオルガニストとして楽器を演奏した可能性もある。

この学校を卒業したもう1人の有名な生徒は、1757年から1759年まで学校に通ったヨハン・アブラハム・ピーター・シュルツ(Johann Abraham Peter Schulz)だ。 シュルツは、ドイツで人気の子守歌である、《月は登りぬ》(Der Mond ist aufgegangen)という曲のメロディーを作曲したことで有名だ。この曲は日本では《夕べの歌》として知られている。

リューネブルクの聖ミヒャエリス教会と修道院の設立を証明する最も古い文書は、同時に都市の歴史そのものでもある。というのも、初代神聖ローマ皇帝オットー1世(大帝)が、956年に聖ミヒャエリス修道院に塩の販売による税収入を与えているからだ。 周知のとおり、塩の販売はリューネブルクという町を大いに裕福にし、それに従ってミヒャエリス教会も経済基盤を盤石のものにした。しかし、このリューネブルクを代表する教会には、その昔、たびたび幽霊が現れたという伝説も残っている。

その昔、リューネブルクがまだ眠りについている間、ひとりの少女が教会の回廊の中庭近くの自分のベッドの中で眠れずに横になっていた。教会の塔の時計が鳴ると、彼女は驚いて起き上がり、何かそら恐ろしいものを感じた。彼女は怖気づくことなく窓へと近づき、カーテンの隙間から注意深く外を見降ろした。彼女が回廊の中庭を見下ろすと、彼女の体中の血は恐怖で止まったように感じた。白い衣装の僧侶たちが、松明に照らされながら、回廊の中庭を横切って歩いているのだった。

パニックになった少女は姉の部屋へと駆け込み、息を切らして、今見たものを説明した。姉も修道院の中庭を見下ろして、その光景に凍り付いた。妹は真実を話していたのだった。司教杖を手にした修道院長に率いられ、彼らは人間とは思えない深い声で聖歌を歌っているようだった。間もなくして、聖ミヒャエリス教会の内部からオルガンの演奏が聞こえてきた。すると幽霊はたちまち姿が見えなくなり、歌も次第に聞こえなくなった。少女たちは夜明けまで窓際に立ち、明け方、神父のところへと走り寄った。「何か夢でも見たのですか?」と神父は尋ねた。「君たちはおそらく僧侶たちを見たのだろう。」神父は自分も僧侶を見たことがあることを認めたのだった。

伝説はここまでしか物語っていない。その昔、ミヒャエリス修道院は、現在の場所ではなく、リューネブルク・カルクベルク(Lüneburger Kalkberg)にあるビルング家(Billunger)の城に建っていた。この城は、この地域で一番大きな建物だった。それはビルング家の修道院であり、一族はこの教会に埋葬された。 10世紀後半、修道院はベネディクト会に属するようになり、 《白い黄金》と呼ばれた塩により、豊富な収入を得たが、この富が原因で都市の領主が主権者との紛争に発展することもあった。紛争は14世紀に激化、市民は城を襲撃し、破壊したのだった。この時、カルクベルクの聖ミヒャエリス修道院も破壊され、その後に現在の場所に再建されている。あるいは、この頃の僧侶の霊であるかもしれないが、この僧侶たちの正体はわかっていないし、なぜこの教会に現れたのかも伝わってはいない。

参考:

lustauflueneburg.de, “Die weißen Mönche von St. Michaelis”, 2018, Anna Sprockhoff und Dennis Thomas, https://www.lustauflueneburg.de/sagen/#gsc.tab=0

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