【ドイツの歴史】クリミアの天使 | フローレンス・ナイチンゲール

カイザースヴェルト

カイザースベルト学園で学んだナイチンゲールのエピソード

【フローレンス・ナイチンゲール】

カイザースベルトでその名前忘れてはいけない人物がこの人物。フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)だ。

Florence Nightingale - Wikipedia
フローレンス・ナイチンゲール

工業化時代の始まりを迎えた19世紀、カイザースベルトで牧師をしていたテオドール・フリードナー(Theodor Fliedner)は、自身のキリスト教への信仰から、ある問いが頭のなかを巡っていた。社会で疎外された困っている人々をどのように助ければよいのか。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Pastor_Theodor_Fliedner_1800-1864.jpg

そして、囚人の世話、子供たちの養育と教育、そして病人と高齢者の世話など、社会的な弱者に対する奉仕活動の拠点として、1836年、カイザースベルトに最初のディアコニーハウスを設立したのだ。ディアコニーというのは、教会の後援を受けた社会奉仕活動を行う組織を指す。この考えは広く支持され、カイザースヴェルトに最初のディアコニーハウスが設立されて以来、1861年までにヨーロッパ全体で合計26の施設が建設された。フローレンス・ナイチンゲールは1849年と1851年にここカイザースベルトに数か月滞在し、傷の治療方法や看護についての教育を受けたのだった。

1820年、ナイチンゲールは、イギリスの裕福な両親のもとに生まれた。2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国で生まれたことから、フローレンスと名付けられた。幼少期から外国語や数学、歴史など幅広い学問を身に着けたのだったが、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。17歳のとき、インフルエンザの患者を数週間にわたり看護したことで、病人の看護に人生を捧げたいという願望が高まったという。ナイチンゲールは日記に次のように書いている。「神は、私のところへ来て奉仕しなさいと言われた。」

両親は反対した。当時、看護はまだ下層階級の仕事だと考えられていた。1851年、ナイチンゲールは裕福な作家で政治家のリチャード・ミルンズとの結婚を断り、両親の意思に反して、当時すでに看護婦教育が行われていたカイザースベルト学園へ向かったのだった。ドイツを選んだ理由は、イギリスでは当時まだ看護に関する教育が確立されていなかったからだ。カイザースベルトでは3か月間滞在し、患者の手当、病人の看護、手術の助手など、様々な知識を身に着けている。

その後、イギリスに戻ったナイチンゲールは、しばらくロンドンの病院に勤務するが、クリミア戦争(1853-56)の勃発とともに、従軍看護婦として戦地に赴くのだった。戦地の病棟では、暖房もなく、建物の換気も不十分であった。そのうえ、患者の多くは何週間も同じ服を着ており、ノミやシラミに悩まされていた。また多くの病棟でトイレとして使用されていたものは、木のバケツであり、恐ろしい悪臭を放っていた。

ナイチンゲールは、この壊滅的な状況を変革のチャンスと見なした。ナイチンゲールは自分が信じていた原則、つまり看護における清潔さと衛生を実現することにした。そこで、まず便所掃除を徹底的に行うことで、病院内の衛生の向上を目指した。すると死亡率はみるみる改善していったのだった。兵舎病院での死者は外傷が死亡の直接の原因ではなく、病院内の不衛生による感染症の蔓延によるものであったことが推測できる。衛生面の改善は、ナイチンゲールの経験に基づく知識であったという。ナイチンゲールはバクテリアに関する知識があったわけではなく、どのようにすれば状況が改善するのか現場でしっかりと観察していたのだ。

当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。現在でも看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。

帰国後、ナイチンゲールは軍の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を行い、数々の統計資料を作成し、各種委員会に提出した。特に死亡原因ごとの死者数をひと目で分かるように工夫した多角形のグラフは、今日ではクモの巣チャートと呼ばれている。看護にはじめて統計学を持ち込み、さらに専門家でないヴィクトリア女王が見やすいようにデータの視覚化を行ったことで、母国イギリスではナイチンゲールを統計学の先駆者としている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Nightingale-mortality-1024x643.jpg
ナイチンゲールがクリミア戦争時の死因を分析し、表したグラフ

ナイチンゲールが当時学んでいたカイザースヴェルトのディアコニーハウスは、1975年、フロレンス・ナイチンゲール病院としてオープンし、現在も社会福祉活動を続けている。

クリミア戦争での従軍看護婦として活躍したナイチンゲールであったが、国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、戦争終結後はわざわざ偽名を使って人知れずイギリスに帰国している。自身の活動が過剰に美化され、《天使》というイメージで見られることを嫌ったナイチンゲールの言葉が残っている。

「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」

2020年5月12日、新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るうなか、フローレンス・ナイチンゲールは生誕200年を迎えた。

参考:

Alzheimerpunkt.ch, “Die Lady mit der Lampe”, Hubert Kolling, https://alzheimer.ch/de/wissen/bildung/magazin-detail/624/die-lady-mit-der-lampe/

Tagesschau, “Pionierin der modernen Krankenpflege”, 12.05.2020, https://www.tagesschau.de/ausland/florence-nightingale-krankenpflege-101.html

Who’s Who, “Florence Nightingale”, https://whoswho.de/bio/florence-nightingale.html

Indeipendent, “Florence Nightingale’s legacy ‘has never been so relevant’ as world marks 200th birthday”, 12.05.2020, https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/florence-nightingale-birthday-anniversary-international-nurses-day-coronavirus-a9508876.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました