【ドイツの歴史】ディットマールシェンと呼ばれる農民の国
北海、アイダー、エルベ、キール運河の間のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン南西部の地域は、ディットマールシェン(Dithmarschen)と呼ばれ、中世から存在している。ディットマールシェンは伝統的に(旧)自由農民共和国(freie Bauernrepublik)と呼ばれていた。
この地の住民は、13世紀の初めから、自由な土地で自由な農民として暮らしていた。彼らはデンマーク国王の支配から解放され、当時の共和国の測定によると、約1,400平方キロメートルの土地を管理していた。ディットマールシェンは4つの「Döffte」(ガウ)と呼ばれる区分に分けられていた。領土を統治する為、各ガウがそれぞれ12人の代表を送った。構成する都市の中には、メルドルフ(Meldorf)を除いて、大きな都市はなかった。ディットマールシェンは、相互の助けを約束する密接に関係した家族を持つ個々の大規模な農場で構成されていた。 1447年、彼らは独自の憲法さえ持っていたのだった。
デンマーク国王ヨハン(Johann von Dänemark)は ディットマールシェン に投降するように呼びかけた。封建時代後期のヨーロッパでは、ディットマールシェン共和国は例外的な存在として注目を集めていた。デンマーク国王は、こういった独立した農民を決して受け入れることはなかった。 1481年以来、この地を統治していたヨハンは、ホルステインでの権威を回復することを決心したのだった。彼は1497年にスウェーデン王にも即位した後、この「農民の誇り」を打ち破る決意を固めた。
1499年にレンズブルクの州議会で、ヨハンはディットマールシェンに投降を求めた。彼らは年間15,000マルクという当時としては莫大な金額を支払い、メルドルフ、ブルンスビュッテル(Brunsbüttel)、アイダー川(Eider)に3つの要塞の建設を受け入れることになっていた。彼らが拒否した場合、王は彼らに対して戦争を開始すると宣言した。テオドール・フォンターネ(Theodor Fontane)は、デンマーク王の要求に対する農民たちの自信に満ちた回答を叙事詩の中で非常にうまく説明している。
「そして、農民のヴォルフ・イセブランド(Wolf Isebrand)は次のように言った。私たちはこの土地を王の手から領土として拝領したことはない。(・・・)そして、湿地帯に城を建てる者は、岩の上に城を建てることはない。この国は我々のものだ。私たちは高潮との戦いでそれを知った。我々は海を征服したのだ。我々は王の怒りなど恐れない。」
ヨハンはこの答えを聞いたとき、生意気な農民たちを討伐するまで、あごひげと髪の毛を剃らないと誓ったと言われている。ヨハンはそれほど農民の討伐に全力を尽くした。ヨハンはデンマークとホルシュタインから8000人の戦士を動員しただけでなく、悪名高い傭兵部隊「ザクセン警護隊(Sächsische Garde)」または「黒い一団(Schwarze Bande)」と呼ばれる連中も採用した。これら4000人の傭兵たちは過去に反乱を鎮圧した経験があった。彼らは戦いの前に、「農民たちよ、警備隊が来るまで隠れていろ! („Wahr Di, Buer, de Gaar kummt!“)」と叫ぶのだった。彼らは地元ユンカーのトーマス・スレンツ(Thomas Slenz)の指揮のもと、長さ5メートルにも達する槍で武装していた。
1500年2月13日、ヨハンの軍隊はメルドルフに侵入し、街を略奪。時間内に逃げることができなかった住民を一人残らず虐殺した。約3,000人の戦闘員を擁するディットマールシェン軍は、州の長老ヴォルフ・イセブランド(Wolf Isebrand)指揮の下、「デュセンドゥウェルスワーフ」つまりタウゼント・トイフェル・ウォール(1000の悪魔の壁)と呼ばれる、ヘミングシュテット(Hemmingstedt )近くの古い丘の背後へと撤退した。この壁は、デンマーク人にとって唯一の前進できる道であった、ハイデ(Heide)への狭い田舎道を遮断したのだった。
2月17日の朝、「 ザクセン警護隊 」がメルドルフを去ろうとしたとき、農民は数キロ離れた堤防を決壊させた。前日までほぼ連続して雨が降っていたため、小道はたちまち泥道へと変わった。デンマーク軍の前進はますます困難になり、正午に農民軍の前衛部隊が城壁の前に到着したとき、砲兵とその従者はメルドルフからほぼ出て行くことさえできない状況であった。重装備の兵士たちは泥でいっぱいになった狭い通りの中でほとんど動くことさえできず、圧倒的に不利な状況に陥っていたのだ。
軽装のディットマールシェンの軍隊は、リーダーであるヴォルフ・イセブランドとテルス・フォン・ホッホヴェルデン(Telse von Hochwöhrden)という若い女性を先頭に、敵に向かって壁から襲い掛かった。攻撃は2度ともあえなく撃退されたが、デンマーク側の傭兵と騎士はますます追い詰められ、細い泥道であえいだ。多くのデンマーク兵が脱出しようとしたが、通りを離れようとして溺死したのだった。警備隊のリーダーであったトーマス・スレンツは、フリジア種の馬に乗り、最後まで戦った。デンマークの帝国旗「Danebrog」の旗手、ハンス・フォン・アーレフェルド(Hans von Ahlefeld)は自分たちが負けたことに気づき、帝国旗を体に巻き付けたところを、6人の兵士に切り殺されたのだった。
こうして、デンマーク人はヘミングシュテットで完膚なきまでに打ち負かされたのだった。メルドルフでの虐殺に対する復讐として、 ディットマールシェン軍は敵を残らず捕らえ、皆殺しにした。彼らは死んだ兵士を葬ったが、騎士と貴族の遺体は、太陽の下で骨になるまで、戦場に裸体のままで放置された。
デンマーク王ヨハンは、軍隊を失っただけでなく、金も大砲も、帝国旗さえも失ったのだった。農民との戦争の前に立てた自らの誓いに反し、デンマーク王は再びひげを剃り、髪を切り、そしてその後の生涯、決して農民たちには近づかなかった。ディットマールシェンの土地は、19世紀まで自由を保ち、独立を守ったのだった。
参考:
welt.de, “Hemmingstedt – Bauern besiegen ein Ritterheer”, 17.08.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1102210/Hemmingstedt-Bauern-besiegen-ein-Ritterheer.html
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