大司教が企てた誘拐

カイザースヴェルト

1056年から1105年まで統治していたドイツ王であり、神聖ローマ皇帝であるハインリヒ4世は、常に悪い評価を受けてきたと言える。彼と共に帝国権力の衰退が始まり、帝国内の特定権力が台頭したと言われている。ハインリッヒの悲劇は、「カノッサの屈辱」として知られる劇的なシーンで最高潮に達する。泣きながらわずかな衣服に身を包んだ皇帝は、イタリア北部のカノッサ城の前で、教皇に破門を解くように懇願したのだった。 1077年1月28日、グレゴリウス7世はその様子を上から見下ろしていたのだった。

ザーリアー朝の3代目の統治者は確かにこれまで楽な生活を送ってきたわけではなかった。父ハインリヒ3世が亡くなり、彼が新しい王に就任したのはわずか5歳の時だった。その為、母親のアグネスが摂政として統治を引き継いだ。その下で、多くの者が王室の特権を獲得する機会をつかみ、中には幼き王を誘拐しようとする者さえいたのだった。

1062年のカイザースヴェルトのクーデターは、まだ幼いハインリヒ4世と摂政であった母親のアグネス皇后、そして彼女に任命されたハインリッヒ・フォン・アウグスブルク司教に対し、ケルンのアンノ2世大司教の指揮の下、帝国貴族によって行われた前例のない暴挙であった。幼い王の誘拐と帝国宝物(神聖ローマ帝国の皇帝支配権の証。帝国王冠、聖槍、帝国の剣を指す)の引き渡しを交渉材料とし、この帝国貴族のグループは帝国の支配権を獲得した。

1062年4月の初め、ハインリヒ4世は母親と一緒に、現在はデュッセルドルフの行政地区に属するカイザースヴェルトの宮殿に滞在していた。そこで二人はケルンのアンノ2世大司教と会った。饗宴の後、 アンノ2世大司教 は11歳の少年を、ライン川に係留していた豪華な船へと誘い込んだのだった。年代記作家のランペルト・フォン・ハースフェルド(Lampert von Hersfeld)は、ハインリッヒが船に乗り込んだときに起こった出来事を次のように説明している。

「しかし、彼が船に入るとすぐに、大司教によって雇われた共犯者が彼を取り囲んだ。船の漕ぎ手は素早く立ち上がり、全力でオールを漕いで、電光石火の速さで船を川の中央へと移動させた。まったく予期しなかった出来事に呆然とし、事態を呑み込めなかった幼い王は、殺されると思い、真っ逆さまに川へと飛び込んだのだった。 ブラウンシュヴァイク伯 エクバルト(Ekbert von Braunschweig)が船から飛び込み王子を川から救い出していなければ、彼は激しい流れの中で溺死していたことだろう。」

その後、 アンノ2世は王をケルンへと連れて行き、帝国宝物を渡すようアグネス皇后を脅迫したのだった。したがって、帝国権力は反帝国勢力の手に委ねらることとなり、その中には、 年代記作家のランペルト が言及したアンノ司教とブラウンシュヴァイク伯 エクバルトに加え、オットー・フォン・ノルトハイム(Otto von Northeim)とアダルベルト・フォン・ブレーメン(Adalbert von Bremen)とジークフリート1世・フォン・マインツ(Siegfried I. von Mainz)も所属していた。

しかし、誘拐の動機は何だったのか? アンノ2世が息子を母親の影響から取り除き、帝国の管理を自らの手に握ることを目的としたのか。 単に政治的野心から起こした行動という見方もあれば、アンノ2世が帝国の利益の為に行動したという解釈も存在している。

アグネス皇后という知恵が深く、成熟し、厳格な道徳観への恐れがその背景にあったのか、あるいは、帝国が女性によって支配されることは適切ではないという考えがアンノ2世をクーデターに突き動かしたのか。複数存在する説のなかには、若い王が母親の干渉を受けずに、自身の権力を拡大できるよう、あえて誘拐されたという主張まである。若いハインリッヒは、王室の生活の中で傲慢さが膨らみ、母親の忠告にほとんど耳を傾けず、 アンノ2世による誘拐後、王としての正しい教育を受けたという説。アグネスの非を鳴らす説としては、彼女に重用されたハインリッヒ・フォン・アウグスブルクの間に特別な関係があったのではないかと疑う声もある。

しかし、いずれの動機があったにせよ、この出来事がハインリッヒの性格を形作ったとみられている。 ハインリッヒは猜疑心が強く、気が早く、閉鎖的な性格になり、周りのお世辞を真に受けて、悪いアドバイスに簡単に従うようになった。 同時に複数の側室を持っていたが、それだけではなく、ちょくちょく若い女性を手籠めにしては、彼女たちを自身の使用人へと与えたのだった。

ハインリッヒが成人した後も、家臣の助けを借りて失われた王権を取り戻すための努力は、むしろ貴族のなかに敵対者を増やした。そして、反皇帝の連合に教皇が加入したことで、その勢いは強さを増したのだった。 ハインリッヒはこれまでの歴代の王同様、イタリアを含む帝国全体において司教の任命権を主張した。 しかし、これは、教皇たちが荒廃した教会制度を改革しようと、歴代教皇が試みた教会法と相反していた。

グレゴリウス7世は最も熱心にこの改革を行い、ドイツ王が司教区を割り当てることを禁じた。その後、1076年にハインリッヒがヴォルムスでドイツの司教職の大多数を手中にし、「偽坊主ども」を追放したとき、グレゴールは皇帝に対して脅迫を行った。教皇はハインリッヒに教会への立ち入りを禁じ、カトリック教会から破門したのだった。

グレゴリウス7世 はハインリッヒに対する個人的な敵意はなかったが、優れた教皇権力の確立には大きな関心を持っていた。したがって、教皇は新しい皇帝選挙には反対したが、ハインリッヒに苦行を与えて、教会権力の優位性を認めさせようとしたのだった。

破門を受けたハインリッヒは予想よりも早く行動を開始した。冬の真っ只中に、彼は命に大きな危険を冒し、わずかな側近だけでモン・スニ峠を渡った。

ハインリッヒは、調停を申し出たマティルデ・フォン・トゥジエン伯爵夫人(Gräfin von Mathilde von Tuszien)が所有するカノッサ城の前に突如現れた。 「履物も履かず、羊毛の服をきただけの王の華やかさの微塵もない哀れな恰好で、ハインリッヒは城門の前で3日間待ち続けた。そこにいたすべての人が…思いやりと慈悲に圧倒されるまで、彼は涙を流し、嘆願することを辞めなかった。」

教皇の赦免を得るために、グレゴリウスを前にして、ハインリッヒは腕を十字架の形に伸ばして、地面に身を投げださなければならなかった。それに先立って、教皇のドイツ訪問時には、安全な行動を許可することを約束させられたが、その甲斐もあって、彼の破門は解かれたのだった。

しかし話はここで終わらなかった。ハインリヒ4世はドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立。その後、再び叙任権をめぐって、教皇とのは争いは続くこととなる。因みに、ハインリッヒは幼少の頃の誘拐事件を経験してから、カイザースヴェルトに来訪したのは、諸侯会議への参加のために来た時の一度だけであった。子供の頃、誘拐されるという経験をした皇帝にとっては、カイザースヴェルトは二度と戻りたくない鬼門であっただろう。ちなみに、この誘拐事件の主犯であるアンノ2世はその死後、1183年にカトリック教会に列聖されている。

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