ヨハン・ヴィルヘルムとアンナ・マリーア・ルイーザ
イタリアはフィレンツェのアルノ川沿いにウフィツィ美術館が建っている。いつも大勢の訪問者が行列をなしているが、入館の番が回ってきて、館内に一歩踏み入れると、頭上に一人の貴婦人の肖像画が目に留まる。美術館で最初に目にする肖像画だ。
この肖像画の人物は、メディチ家最後の当主、アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de’Medici)だ。メディチ家が所有していたウフィツィ美術館をトスカーナ政府に寄贈した人物である。寄贈の際の条件が、「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」だったという。この女性の英断によって、われわれは今日ボッティチェリの《プリマヴェーラ》やダヴィンチの《受胎告知》を見ることができるのである。
前置きが長くなったが、このメディチ家のアンナ・マリーア・ルイーザと結婚したのが、デュッセルドルフの選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムである。ヨハン・ヴィルヘルムは、マリア・アンナ・ヨーゼファ(Maria Anna Josepha von Österreich)と結婚していたが、彼女はヨハン・ヴィルヘルムが選帝侯になる前年に亡くなっていた。アンナ・マリーア・ルイーザとは二度目の結婚だった。
デュッセルドルフの旧市街に建つ市庁舎の前にヨハン・ヴィルヘルム2世の記念碑がある。デュッセルドルフの人々は親しみを込めて、ヤン・ヴェレンという愛称で呼ぶ。1711年に完成したヨハン ヴィルヘルム2世の騎馬像は、高さ4メートル、重量は800キロもあるという。
この騎馬像は、彫刻家のガブリエル・グルーペロ(Gabriel Grupello)によって作られたものだ。グルーペロは製作を開始したものの途中で材料を切らしてしまったらしい。そこで鋳物工房の少年がデュッセルドルフ市民の家をひとつひとつノックして回り、銀製のナイフやフォークを寄付として集めたという。うそか誠かこういう逸話が残っていて、この町の市民は、この銅像はデュッセルドルフ市民によって建てられたのだと自慢げに話す。
1685年、プファルツ選帝侯カール2世(ヨハン・ヴィルヘルムの祖父)が死去すると遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承したが、ルイ14世は弟のオルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットがカール2世の妹だという理由でいいがかりをつけ、プファルツの継承権を主張した。1688年、フランス王ルイ14世は、侵略戦争を開始する。当時ヨーロッパで最強の軍隊を率いていたフランスに対抗するため、オーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンなどの諸国はアウクスブルク同盟を結成した。世にいう《プァルツ継承戦争》(別名アウグスブルク同盟戦争)の勃発である。
この戦争では、ライン川中流地域、ネッカー川流域が主戦場となり、ヴォルムスやシュパイヤー、マインツなどの都市がフランス軍によって大打撃を受けた。これまでプァルツ家の居城であったハイデルベルク城もこの時破壊された為、1690年、父の死去に伴い選帝侯位を継承したヨハン・ヴィルヘルムは、デュッセルドルフに居を移したのだった。
プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイクの平和(1697)では、戦争のきっかけであったプファルツ選帝侯の継承問題について、フィリップ・ヴィルヘルムの息子でプファルツ選帝侯を継いだヨハン・ヴィルヘルムの地位はフランスにも承認された。結果、フランスにとっては事実上の敗北となった。
戦争終結後、ヨハン・ヴィルヘルムは、自らの宮廷画家であったヤン・フラン・ファン・ドゥーベン(Jan Frans van Douven)を中心に多くの芸術家や職人を庇護し、新たな建築や宮廷生活に関連した仕事に積極的に登用した。
宮廷画家であると同時に、ヨハン・ヴィルヘルムの命を受けて、芸術作品の買い付けや買収も行っていた。
この頃、三十年戦争とプァルツ継承戦争で破壊されたシュヴェツィンゲン城も再建させている。こういった芸術面での貢献は、メディチ家のアンナ・マリーアと結婚した影響も大きかっただろう。ルーベンスを中心とする絵画や彫刻などのコレクション初め、その美術品を収めるための巨大な美術館を建てた。それが今はなき《デュッセルドルフ絵画ギャラリー》であった。またバロック様式のオペラハウスの建設や街灯の設置、新聞の定期発行など、様々な発展に貢献した。
デュッセルドルフの旧市街には、ヨハン・ヴィルヘルム所縁の《En De Canon》(アンデキャノン)と呼ばれるレストランが残ってる。このレストランの醸造室にはヨハン・ヴィルヘルムの使用した椅子と彼のワインカップがあるという。彼はここで町民と彼の宮殿に招いた芸術家たちと頻繁に集まったという。
1716年6月8日、ヨハン・ヴィルヘルムは、58年の生涯に幕を閉じる。彼の遺体は、彼の宮廷建築家ガブリエル・グルーペロによって設計および鋳造された壮大な石棺に埋葬され、墓碑はデュッセルドルフの聖アンドレア教会の霊廟に安置されている。
デュッセルドルフを著しく発展させたヨハン・ヴィルヘルムであったが、後継ぎをのこさないままこの世を去ってしまう。主を亡くした妻のアンナ・マリーア・ルイーザは、フィレンツェのピティー宮殿に戻ってしまう。ヨハン・ヴィルヘルムは、前妻マリア・アンナ・ヨーゼファとの間に子供が二人いたが、二人とも逝去していた。アンナ・マリア・ルイーザとの間には子供がおらず、弟であるカール・フィリップにも世継ぎがいなかった為、ヨハン・ヴィルヘルムの逝去とともに、神聖ローマ帝国の領邦君主として1505年から続いたプファルツ=ノイブルク家は断絶する。
プファルツ系ヴィッテルスバッハ家のカール・テオドールがプァルツ選帝侯、さらにはバイエルン選帝侯をも継承し、選帝侯の宮廷はミュンヘンへと移ってしまうのだった。この時に美術品のコレクションは持ち去られてしまう。ヨハン・ヴィルヘルムがその祖父のヴォルフガング・ヴィルヘルムの時代から収集した作品群である。その中には、メディチ家から嫁いだアンナ・マリア・ルイーザが持参したラファエロ作の《カニジャーニの家の聖家族》(Heilige Familie aus dem Hause Canigiani)も含まれていた。
ヨハン・ヴィルヘルムは早くからオランダ絵画に注目し、平凡な作品をたくさん購入するより、最高の作品を購入することに予算をつぎ込んだと言われる。ヨハン・ヴィルヘルムの後を継いだカール・テオドールもオランダ絵画には目がなく、レンブラント(Rembrandt van Rijn)作《聖家族》などを購入し、コレクションを拡張した。そんなコレクションの多くがデュッセルドルフからミュンヘンに持ち去られたのだ。今日、持ち去られたルーベンスの作品だけで32点もの作品がアルテピナコテークに収蔵され、同美術館の中心的な所蔵品の1つとなっている。
名君と呼ばれたヨハン・ヴィルヘルム亡きあと、デュッセルドルフの繁栄もかげりを見せ始めるのだった。このように都市の繁栄も、目まぐるしく変化する政治状況に大きく左右される非常に移ろいやすいものだった。1716年にヨハン・ヴィルヘルムが亡くなったその翌年、アンナ・マリア・ルイーザはフィレンツェに戻るのだが、宮廷画家であるヤン・フラン・ファン・ドゥーベンが描いた夫婦の肖像画を大事に持ち帰っている。この肖像画は今日フィレンツェのウフィツィ美術館のヴァザーリ回廊に飾られており、今も夫婦の仲睦まじい姿を伝えている。
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