彫刻家がハンマーで砕いたもの | ガブリエル・デ・グルッペロ

デュッセルドルフ

バロック様式のヤン・ヴェレム騎馬像は、デュッセルドルフ旧市街のマーケット広場にある。馬に乗ったプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム2世・フォン・ユーリッヒ=ベルクを等身大で表した像だ。彼は鎧とマントを身に着け、右手には元帥杖を持っている。頭には月桂樹の花輪が飾られている。

ヤン・ヴェレム騎馬像(筆者撮影)

この選帝侯は国民に非常に人気があった。そのため、彼はデュッセルドルフの人々から単に《ヤン・ヴェレム》と愛称で呼ばれていた。彼の治世、選帝侯は芸術と文化を大々的に支援したのだった。その為、ゲーテとシラーがデュッセルドルフを頻繁に訪れている。彼はデュッセルドルフに街路照明を導入したことでも有名になった。これは、文字通り、他の主要都市よりもデュッセルドルフに光を当てることに成功した。

ヨハン・ヴィルヘルム自身はとても人気があったので、彼がまだ生きている間に記念碑を建てたいと思っていた。その為、1659年、イタリアとフランドルの彫刻家、ガブリエル・デ・グルッペロ(Gabriel de Grupello)がその記念碑制作のため、宮廷へと呼ばれたのだった。

ガブリエル・デ・グルッペロ(Source:de.wikipedia)

グルッペロは、14歳のとき、アントワープで彫刻家として5年間の見習いを始め、最終的にパリで2年間勉強し、2年間の滞在中にブロンズ鋳造技術を学んでいる。その後、ブリュッセルで自身の工房を開き、スペイン王カール2世(Karl II)、オラニエ公ヴィルヘルム2世(Wilhelm II. von Oranien)、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ3世(Friedrich III)など、さまざまな君主のために作品を制作していた。その名声を買われ、デュッセルドルフへと迎えられたグルペッロは、1703年に仕事を始め、その完成には1711年まで8年間を擁した。この彫像制作には次のような話が伝わっている。


彫像作品がようやく完成して広場に設置されると、宮廷の人々と庶民は、その作品を一目みようと、みなマーケット広場に集まった。作品が展示されたとき、選帝侯は自身の像を熱心に鑑賞し、それを大絶賛した。他の芸術家、金細工職人、石工がこれを聞いたとき、彼らは自分たちはもうこれ以上、宮廷から注文を受け取ることがないのではないかと心配になった。嫉妬と妬みから、彼らはグルッペロの芸術作品を酷評した。どこか実際と違うところを見つけ、わずかな違和感も見逃さず、彼らは常に批判する箇所を見つけた。

こういった批判はすぐに人々に広がり、町中に大きな失望が広がった。もちろん、これは選帝侯の耳にも届いた。選帝侯は直ちにグルペッロのもとへ赴き、状況を説明した。

批判がどこから出たのかを認識したグルッペロは、自身の作品を高い木製の囲い板で囲み、外から全く見えないようにした。それから彼は、目に見えて落胆した様子で、彼の作品に対するすべての批判・苦情を受け入れると発表した。そして、彼は彫像を修正するべく作業に入った。グルッペロは、多くの修正を行うのには時間がかかるので、少しの間忍耐強く待ってくれるよう理解を求めた。

その後の数週間、囲い板の後ろで絶え間ないハンマーの音が聞こえはじめた。人々は作業の様子を見ようと囲い板の隙間から覗いたりしてみたが、結局、何も見えなかった。時折、作業のためと思われる埃があたりに立ち込めていただけだった。

数週間後、デュッセルドルフの人々が待ちに待った「新しい」像が公開された。それを見た人は皆、その作品を賞賛した。最も厳しい批評家でさえ、今回はグルペッロの仕事に対する賞賛を惜しまなかった。

グルッペロは彼の賞賛を冷静に聞き終えると、ようやく口を開いた。「諸君、作品をよく見てみたまえ。作品は以前のものと何一つ変わっていない。考えればわかるが、鋳鉄製の作品をハンマーで修正することなど不可能だ。私がハンマーで打ち砕いたのは、君たちの羨望だ。」

ヨハン・ヴィルヘルムは、このグルッペロに、1706年にマッテオ・アルベルティ(Matteo Alberti)が建てたマルクトプラッツ3番の家を与えている。ここには、グルッペロの工房と、金属の鋳造所などがあった。この家は、現在もヤン・ヴェレン像のすぐ後ろに建っている。

《グルッペロハウス》(筆者撮影)
グルッペロハウスの説明文(筆者撮影)

選帝侯の寵愛を受けたグルッペロだったが、1716年に ヨハン・ヴィルヘルム が亡くなると、グルッペロの宮廷での彫刻家活動は突如終焉を迎えた。ヨハン・ヴィルヘルムの後継者である選帝侯カール・フィリップは緊縮財政を実施し、公務員と芸術家を一度に解任した。 1719年、グルッペロは皇帝カール6世からは薄給で雇用されたのだが、 1725年、グルペッロは妻と一緒にオランダの娘のもとへと引っ越している。彼は二度とデュッセルドルフに戻ることはなく、オランダのエーレンシュタイン城で1730年に86歳で亡くなっている。

参考:

drachenwolke.com, “Jan Wellem Denkmal”, https://www.drachenwolke.com/reisen/duesseldorf/jan-wellem/

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