世紀の大泥棒 シンダーハーネス

リンブルク

【ヴェルナー・ゼンガ―ハウス】

ヴェルナーゼンガ―・ハウス(Werner-Senger-Haus)は、13世紀に建てられたリンブルク・アン・デア・ラーンの旧市街にある木組みの家だ。何世紀にもわたって、かつて裕福なリンブルクの商人の拠点だった。 この家が近くのブリュッケン通りに住んでいる商人であるヴェルナー・ゼンガーが住んでいたかどうか、またどうして誤って彼の名前が付けられたのかは現在でもわかっていないという。

遠くから一望すると、気骨作りの家に見えるが、近くで見るとそれがすべて壁に描かれたものであることがわかる。現在の建物は、1274年にはすでに建っていたことがわかっている。1289年の大火事の後も部分的に残ったため、リンブルクの旧市街で最も古い家と言われている。

しかし、この家を一躍有名にしたのは、シンダーハンネス(Schinderhannes)として有名であった強盗、ヨハネス・ビュックラー(Johannes Bückler)がリンブルク近くで逮捕され、この家に連れて来られた時であった。

《シンダーハーネス》と呼ばれた《ヨハネス・ビュックラー》は、ラインラント・プァルツ州にあるミーレン(Miehlen)という小さな町に、1779年頃に生まれている。15歳から犯罪を重ね、窃盗、恐喝を中心に少なくとも200以上の犯罪を犯した。強盗だけでなく殺人も犯したとされる。 共犯者の数は94人にも上ると言われる。

ビュックラーは、子供の頃、皮革職人のもとへ奉公へ出た。小さな悪さをしたことで、親方に鞭打たれたことによって、グレてしまったのか、野盗の仲間に入ってしまう。ビュックラーは肌身離さず聖書を持ち歩き、金貸しや貴族などの金持ちから奪った金品を貧しい人々に分け与えたという。ドイツ版ネズミ小僧、またはロビンフッドのようだ。

1799年2月末、シンダーハーネスはシュネッペンバッハ(Schneppenbach)で捕らえられた後、ジンメルンに連れて行かれ、そこで投獄された。 1799年8月19日の夜、シンダーハーネスは監視の目を盗み、塔から飛び降り、見事脱出に成功。その代償として足を骨折したことで、しばらくは鳴りを潜めることとなった。そんな時、音楽隊員の美貌の娘、ジュリア・ブレシウス(Julia Bläsius)と結婚している。カレンフェルス(Kallenfels), ハーネンバッハ(Hahnenbach)、ビルケンフェルダーミューレ (Birkenfeldermühle)にあった隠れ家は、さながら盗賊騎士の居城のようであった。

ジンメルンにあるシンダーハーネスの塔と像(Source:ich-gehe-wandern.de)

ビュックラーはその後も大暴れし、数々の犯罪をおかし、仲間からも英雄視され始めていたが、1830年ついに逮捕される。ビュックラーはリンブルクのヴェルナーゼンガ―・ハウスにいたところを捕らえられ、この家からフランクフルト・アム・マインに連行されている。フランクフルトでは、計564の犯行容疑について、9ヶ月以上の尋問を受けた。シンダーハネスはナポレオンからの恩赦を期待し、自身の罪状について隠さず白状したのだが、これは司法当局の捜査を容易にした。

1803年10月24日、当時、フランスの支配下であったマインツで特別裁判所は、68名の被告に対し審議を開始した。検察官は 173名の証人を召喚した。シンダーハネスは53の犯罪で起訴され、裁判ファイルはフランス語とドイツ語の両方で作成されたのだった。ヨーロッパ中から何千人もの人々がマインツに集まり、500枚の裁判傍聴チケットを求めて連日争ったという。チケットの価格は上昇し、その収益は貧困社への基金として使われたという。起訴状は丸2日間読み上げられた。

裁判所は、証拠不十分で何名かの容疑者を無罪としたが、シンダーハネスと19人の共犯者に対しては死刑の判決を下している。裁判所は、シンダーハーネスが犯したとされる3件の殺人、20件の強盗、30件の盗難に対する容疑が証明されたと判断したのだった。妻のジュリアーナ・ブレシウスに対しても2年の刑期が言い渡されたが、彼女は釈放後、憲兵と結婚し、1851年に亡くなるまで、幸せな生活を送っている。1803年11月21日、4万人の大衆が見守るなか、マインツでギロチンによる死刑が​執行された。

マインツでのギロチンによるシンダーハーネス処刑の様子

しかし、近年、シンダーハーネスへの見方も変化しつつある。「弱者の味方」というのは、後世に作られたイメージで、実際は残虐な盗賊であったというのだ。当時は銃を持って強盗に入った場合、死刑に値したが、シンダーハーネスは実に70件もの強盗を行ったという。

重要な点は、シンダーハーネスにはなんら政治的なイデオロギーなどなかったことだ。この時代、ライン川の左岸はフランスに占領されていたが、フランスとの国境線変更などにも興味をもっていなかったようだし、自身が裕福になることだけを考えていたようである。シンダーハーネスが時折示した寛大さは、農民たちが彼の存在を通報しらりすることを抑止する働きがあり、高利貸しを襲うことは正義の行いかのように、村人は強盗団をまるで正義の道具かのように崇拝した。

シンダーハーネスは彼自身が名声を確立した行為もひとりで計画・実行したのではなかった。靴職人のヨハン・ライエンデッカー(Johann Leiendecker)は最も影響力のある仲間だった。彼はよく、どの家に侵入すれば、最高の戦利品を見つけることができるのか戦略を練っていたという。また、このヨハン・ライエンデッカーは、強盗が素通りする「安全カード」の販売を発案した人物だと思われている。ライエンデッカーは、後になんとかオランダへ逃亡し、アムステルダムに靴屋として定住するのだった。彼の犯罪に対する正義はついに下されることがなかったのだった。

シンダーハーネスとその仲間にとって、強盗や窃盗、恐喝などは合理的な商売だったようだ。脅迫状の文面はそれに長けた仲間が担当し、丁寧な文面で何度も金銭の支払いを要求したのだった。定期的に「上納金」の支払いを厭わない商人は、一団の財政基盤を確固たるものにし、シンダーハーネスが貧しい者に施しを与える際にも使われたのだった。

シンダーハーネスは、住居に侵入する際にも常に慎重を期し、住民を脅して、金目の物を奪った後は、すぐに姿を消している。彼は金持ちになってブルジョア的な生活を諦めたくなかったので、司法当局からも殺人者として追われたくはなかった。その為、仲間をうまく飼いならし、なるべく流血を避けるようにしていた。シンダーハーネスの妻、ジュリアも、町で盗んだ品を売っていないときには男の恰好をして、略奪に加わっていたという。

こういったエピソードから浮かび上がるのは、「強きを挫き、弱きを助ける」正義の味方ではなく、弱者を助けることですら、自分自身が生き延びる為の道具として使用した狡猾な男の人生である。事実、「大泥棒」という言葉では括れないほど、様々な犯罪を犯しており、得意としていた犯罪行為は恐喝だったようである。後世、色付けされ、誇張された《ドイツのロビンフッド》のイメージとは程遠いが、時代を騒がせた男の名前は、現在でもタウヌス山地の町々では、その名前を冠した所縁の場所がいくつかある。

シンダーハーネスが捕らえられたリンブルクのヴェルナーゼンガ―・ハウスはその後何度か所有者を変え、現在はレストランとして営業している。シンダーハーネスがジンメルンで捕らわれていた投獄用の塔は、シンダーハーネスについての展示会が行われるほか、ユースホステルとしても使用されている。世紀の大泥棒は、200年の時を得て、かつて盗みを働いた場所でようやく町のため、観光客誘致に一役買っているのである。

参考:

fnp.de, “Was der Schinderhannes so alles vor unserer Haustür trieb”, Frank Weiner, 24.04.2015, https://www.fnp.de/lokales/main-taunus/schinderhannes-alles-unserer-haustuer-trieb-10733133.html

hof-gimbach.de, “Die Geschichte des Schinderhannes”, https://www.hof-gimbach.de/chronik/die-geschichte-des-schinderhannes/

『ドイツ 町から町へ』、池内紀、中公新書、2002年、P118、「大盗シンデルハンネス」

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