カロライン・ハーシェルと彗星の発見

ハノーファー

ハノーファー中央駅を南に15分ほど歩くと、ガルテンフリートホーフ(Gartenfriedhof)という墓地にでる。この墓地には、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』に登場するロッテのモデルであるシャーロット・ケストナー(Charlotte Kestner)の墓のほか、画家のヨハン・ハインリッヒ・ランバーグ(Johann Heinrich Ramberg)の墓もここにある。この墓地にある、もうひとつの著名人の墓が、カロライン・ハーシェル(Caroline Herschel)のものだ。

カロライン・ハーシェル ー もし彼女の母親が、彼女の人生を決めていたら、次第だったとしたら、彼女はきっと家庭に入って子供たちの世話をしていたことだろう。それは、18世紀の典型的な女性の生活がそうであったからだ。しかし、彼女は、「典型的」とは程遠い人生を歩むことになる。

一晩中、星空を眺めている。これは充実した人生と言えるだろうか?歌手としてのキャリアよりも魅力的な生活だろうか?カロライン・ハーシェルにとってはまさしくそのとおりだった。彼女は天文学者として成功したいと願っていた。そして、彼女が成し遂げた発見によって、それまでは男性が支配していた科学の世界で、尊敬を集めることになったのだ。 1786年8月1日、 ハーシェル は最初の彗星を発見したのだった。

カロライン・ハーシェルは、軍楽隊の娘としてハノーバーで育った。彼女はその地域の駐屯地の学校に通っていたが、それは中流階級の家族の子女にとってはかなり珍しいことだった。 カロライン の両親は彼女の将来については意見が全く異なっていたようだ。父親はカロラインに兄弟と同じように音楽を習わせたいと思ったのに対し、母親のほうは彼女を主婦にしたいと思っていた。カロライン当人はというと、両親が考えるよりもっと多くのことを成し遂げたいと思っていたのだった。

彼女の兄、ヴィルヘルムは数年前にイギリスのバース(Bath)に移住し、そこで音楽の教師兼オルガニストとして働いていた。この時代、イギリスとハノーバーは同君連合だったため、イギリスへの移住は難しいことではなかった。 1772年、カロラインは兄を追いかけてバースへ行き、兄の家を切り盛りしながら、同時に歌手としてウィルヘルムの公演に参加したのだった。当時、彼女は有名な音楽祭であるバーミンガム・トリエンナーレ音楽祭(Birmingham Triennial Music Festival)への出演契約を断っている。音楽家としての成功というより、彼女は兄と一緒に仕事をしたかっただけだった。

空を観察すること、科学的に言えば天文学は、当時の ヴィルヘルム とカロラインにとって共通の趣味だった。ヴィルヘルムは妹の支援を受けて、反射望遠鏡を自作していた。1781年、大きなブレークスルーがあった。ウィルヘルムは偶然にも天王星を発見したのだった。この発見は彼をイギリスのみならず、世界中にその名声を広め、ジョージ3世の支持をも得たのだった。この業績により、ヴィルヘルムはイングランド南部のスラウ(Slough)で天文学者としての地位を提供される。キャロラインは助手として兄に同行した。彼女は兄の観察結果を書面で記録し、さまざまなメモを比較し、それぞれの星の位置変化を計算したのだった。そして、カロラインは自分の研究を開始する。

この後すぐに、カロラインは星に自分の名前を付けている。 1783年だけでも、彼女は3つの星雲を見つけている。 1786年に彼女は彗星を発見した最初の女性であり、次の11年間で彼女はさらに7つの星を発見したのだ。男性でさえ科学的な仕事でお金を稼ぐことが難しかった時代、カロライン・ハーシェルは年間50ポンド(現在のレートでは80万円ほど)の賃金を受け取っていたのだ。

この万人に認められた地位によって、カロラインは世界で最初のプロの女性天文学者となったのだ。そして、彼女はすでに実績が認められていた前任者の間違いさえも訂正したのだった。イギリス国王の最初の宮廷天文学者であるジョン・フラムスティード(John Flamsteed)は、80年前にカタログ「HistoriaCoelestisBritannica」で自身の観測結果を発表したのだが、カロラインは、そこにこれまでに観測されていなかった561の星を追加し、フラムスティードの間違いについても、そのいくつかを修正したのだった。

1822年、兄のヴィルヘルムが亡くなった後、カロライン・ハーシェルは仕事は続けたのだが、イギリスには留まらず、故郷のハノーバーへと戻った。そして、その後、1828年の王立天文学会の金メダルを含む、数々の賞を受賞するのだった。 1835年に彼女は同天文学会の名誉会員となった。

プロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世も彼女を称賛した。1846年、プロイセン王は彼女にプロイセン科学アカデミーの金メダルを授与した。 1848年1月9日、カロライン・ルクレティア・ハーシェルは97歳でこの世を去った。彼女は生まれ故郷のハノーバーの墓地で最後の休憩の地を見つけたのだった。

今日、多くの通りの名前だけでなく、数多くの彗星や月のクレーターにも彼女の名前が付けられている。 さらに、ハノーバーの公開天文台は、ハーシェル兄弟にちなんで名付けられた。 主婦である以上に何者かでいたい。そういつも願っていたカロライン・ハーシェルは、現在、若い女性科学者を促進させるプログラムが自分の名を冠していることに、きっと気分を良くしていることだろう。

参考:
welt.de, “Diese Wissenschaftlerin stellte alle Männer in den Schatten”, Marlen Dannoritzer, 01.08.2021, https://www.welt.de/geschichte/kopf-des-tages/article232849263/Caroline-Herschel-Die-erste-bezahlte-Astronomin-der-Welt.html

friedrichshain-kreuzberg-online.de, “Caroline Herschel – ein Leben für die Wissenschaft”, https://friedrichshain-kreuzberg-online.de/index.php/caroline-herschel-ein-leben-fuer-die-wissenschaft/

bibalex.org, “Caroline Herschel: An Iconic Woman Astronomer”, Moataz Abdelmegid, 14 February 2019, https://www.bibalex.org/SCIplanet/en/Article/Details?id=12460

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