ケルンに眠るギリシャ人の皇妃

ケルン

ケルン大聖堂を南へと歩くと、30分ほどのところに、パンタレオン教会(St. Pantaleon)に到着する。ケルンの初期ロマネスク様式の教会であり、 ケルン旧市街にある12の大きなロマネスク様式の大聖堂のひとつである。教会は名前の由来となった聖パンテレイモンとコスマスとダミアンに捧げられている。この教会に安置されているのが、ドイツ史上でももっとも偉大な皇后のひとりとされるテオファヌである。テオファヌがギリシャからはるばるドイツへと来たのは、1000年以上前のことだ。

962年、神聖ローマ皇帝となったオットー大帝は、息子が東ローマ皇帝からついに西ローマ皇帝として認められるため、息子とビザンツ帝国の王女との結婚を望んでいた。 しかし、972年、結婚式のためにローマに現れた女性は決定的な欠点があった。

当初、オットー大帝はこの結婚にあまり満足ではなかったと言われている。息子の花嫁として紹介された、齢17歳ほどの女性は、少なくとも1つの点で、彼の希望にまったく叶っていなかった。テオファヌ(Theophanu)はビザンツの王女だったが、コンスタンティノープル宮殿の皇帝の娘として生まれた王女ではなかった。 テオファヌ は皇帝の遠縁の姪にすぎなかったのだ。

しかし、東フランク王国の王であり、962年以来、西ローマ帝国皇帝となったオットー大帝は、東ローマ帝国に肩を並べることを望んでいた。何年もの間、オットーは東ローマの使者と交渉し、何度も何度も待たされ、戦闘に至ったことさえあった。共通の敵であるサラセン人が侵攻し、ボスポラス海峡の権力図に変化が起こったことが、オットーに突破口をもたらした。オットー大帝と息子オットーとビサンツ王女の結婚には、ビザンチウムによる西ローマ帝国の承認を文書化する必要があった。しかし、オットーの交渉担当者がコンスタンティノープルからローマに連れてきたテオファヌでは、この目的を果たすことができなかった。

その為、オットーの側近は、 テオファヌ をすぐにコンスタンティノープルに送り返すよう助言した。しかしオットー大帝は現実的な政治家であり、ビザンツ帝国に対して良い顔をするために結婚式を決行することにした。972年4月14日、オットー2世とテオファヌは教皇ヨハネス13世立ち合いのもとローマのサンピエトロ大聖堂で結婚し、テオファヌは「帝国の分割支配者」という称号さえ与えられた。

オットー大帝が東ローマ皇帝の策略を乗り越えようとするのには十分な理由があった。ビザンツ帝国と国境を接するイタリア南部はオットーの領土であったが、西ローマ帝国の皇帝としての地位と同様に確保されまることとなったのだ。そして、ビザンツ文化を十分に吸収し、優雅で教養のある王女は、59歳の皇帝の本能を刺激した可能性がある。オットーの17歳の息子も、妻に首ったけであった。これは、当時としては珍しいものであったが、二人の間には少なくとも5人の子供がいたとされ、二人の関係を証明している。

ローマからの帰路、皇帝一向はラヴェンナに立ち寄った。古代末期には、この都市はローマ帝国の首都であり、後にビザンチンの知事の居住地となった。サンヴィターレ教会(San Vitale)では、テオファヌは、帝国を元の大きさに戻したユスティニアヌス1世の側にたたずむ、ビザンチウムの最も有名な皇后テオドラ(Theodora)のモザイク画を鑑賞したとされる。

983年、テオファヌが3歳になったばかりの息子オットー3世のために王冠を確保するという仕事を与えられたとき、テオドラは偉大なロールモデルとして考えられたであろう。彼女の夫はサラセン人に対する軍事攻撃の後にローマで亡くなったのだった。

テオファヌは、自身を皇帝の摂政としての地位から追い落とそうとした、権力志向の義母アデルハイド(Adelheid)と、クヴェトリンブルク女子修道院長の義姉マチルデ(Mathilde)を排除することに成功した。 テオファヌは宮廷でも持前の慎重さとそのたぐいまれな政治能力を発揮したのだった。 また、テオファヌはスラブ人の蜂起によって被った損失を最小限に抑えることに成功。また、息子が皇帝として戴冠を受ける為にローマへと向かう道中では、息子を「アウグストゥス皇帝」と呼んで喧伝した。皇帝の摂政として、八面六臂の活躍である。

ローマからの帰国後まもない991年6月15日、テオファヌはナイメーヘン(Nimwegen)で若くして亡くなった。31歳にも満たなかったと言われている。 死後は、彼女自身の希望により、ケルンの聖パンテレイモンに埋葬された。 テオファヌを称える記念ミサは、ナポレオンが1803年に修道院を廃止するまで、毎年6月15日、8世紀にわたって祝われた。 現在、テオファヌは、1965年に彫刻家のセプ・ヒュールテン(Sepp Hürten)によって作成された白いギリシャ産大理石の棺に埋葬されている。ギリシャから来た王女は、結婚当初、諸手を挙げて歓迎されたわけではなかったが、ローマ=ドイツの最も偉大な皇后の一人として歴史に名を残したのだった。

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