ロマンチック街道沿いに位置する町は、ローテンブルクやディンケルスビュールなど、中世の街並みをとどめた町が多い。ネルトリンゲンの場合、城壁が完全な形で残されており、中世の面影を色濃く残す町だ。町をぐるりと囲む城壁の上には上ることができる。ネルトリンゲンは、今から1500万年前に隕石が落ちた直径23キロのクレーターにできた盆地の上に建てられた町だ。
紀元85年、ローマ人がこの町に入植した。260年頃に、ゲルマン民族のアレマン人が侵入し、ローマ人をドナウの南へと追い返した。中世になり、赤髭フリードリッヒ・バルバロッサ皇帝の孫、フリードリッヒ2世のときに、町は帝国自由都市となっている。これが1215年のことだ。その後、町は交易都市として栄え、発展を始める。町の人口は増え、1327年に市の城壁も拡張されている。
町の中心、マルクト広場に面して建っている聖ゲオルク教会は、1454年からその建設が始まっている。約半世紀が経過した1490年に、仮の屋根がつけられた塔が完成している。 1537年に落雷によりこの屋根は破壊されたが、直後に再建されている。 90メートルの高さを誇るこの教会の塔は、 当初、単に「ステイン(Stain)」と呼ばれ、後に「ウェンデルシュタイン(Wendelstein)」と名付けられた。後に、聖書の第2節、48節から引用し、今日の呼称「ダニエルの塔」と呼ばれるようになったと考えられている。
この 「ダニエルの塔」 は市にとって非常に重要な役割を担っていた。火事や敵から住民の安全を確保するために、 警備にあたっている2人の見張り番が昼夜問わずここから町を監視したのだった。「ダニエル」の塔の見張り役は、自分の持ち場にいることを明らかにするために、一定の時間になると、「ゾー、グゼル、ゾー(so G’sell so!)」と大声で叫ばなければならなかった。
今日でも、当直の見張り番は、塔の上から午後10時から深夜まで、30分ごとにこの役割を担っている。 「ダニエルの塔」には毎年5万人以上の訪問者があるという。
中世以降、見張り番が町の安全を守っていたこの城塞都市には 、こんな伝説が伝わっている。
1440年、ある日、夕刻に差し掛かったネルトリンゲンは、一日を終え、町の明かりを消し、みな眠りの支度をしていた。一日の仕事を終え疲れた市民は、夕暮れ時に家族や仲間と食事をともにし、疲れを癒すために思い思いの時間を過ごしていた。
ある職人の妻は夫にビールを買うために家を出て、町を歩いていた。この時間には、すべての城門が警備員によって施錠され、子供たちはベッドに横になり、家畜も厩舎で眠りについているはずだった。
しかし、物陰で何かが動いていた。ピンク色の家畜豚が、レージンゲンへの最も重要な交易路であるエッティンゲン方面の城門で鳴き声を上げていたのだった。
妻は、城門が大きく開いたままになっているのを発見し、恐怖で叫び声をあげた:「 ゾー、グゼル、ゾー !」。 豚はおびえて、すぐに逃げ出し、家の豚舎に姿を消した。妻は、走って夫を呼び、市長の元へ走った。そして敵の襲来を告げる警鐘を鳴らしたのだった。これがネルトリンゲンに伝わる、町を救った豚の伝承だ。これといって大きな展開のない、地味なお話だが、地元の人ならだれでも知っているお話だ。
もちろん、これは「お話」であり、ネルトリンゲンを攻略したいと考えていたハンス・フォン・オッティンゲン伯爵(Hans von Oettingen)による、1440年の攻撃に由来している。 オッティンゲン家は1147年以来伯爵の称号を保持している貴族で、ネルトリンゲン・リースの 町、オッティンゲン にちなんでこう名付けられた。 オッティンゲン家 は、もともとリースに中心を置いていたわけではなく、フランケン南部のヴェルニッツ河畔にあった。皇帝の委任を受けて地元を統治していた、シュタウフェン朝時代の典型的な貴族だった。
オッティンゲン家 は、13・14世紀にシュタウフェン朝が終焉した後、ハールブルク(Harburg)、アラーハイム(Alerheim)、ヴァラーシュタイン(Wallerstein)、カッツェンシュタイン(Katzenstein)などの領土を買収。それらをネルトリンゲン一帯の オッティンゲン家 の領土に組み込んでいくことで、フランケン地方を離れ、この辺りに拠点を移していた。
オッティンゲン伯爵は、ネルトリンゲンもその手中に収めようと何度もこの町に対する攻撃を仕掛けていた。その為、伯爵は城門の警備に賄賂を渡し、城門の鍵を開けたままにさせて、兵士が誰にも気付かれずに町に入ることができるように手配したのだ。ネルトリンゲンには、5つの城門があり、城壁の上を歩き回ることができる町であり、こういった中世の城塞都市らしい町の形状も、物語のエッセンスになっている。
しかし、この物語の終わりは中世らしく非常に残酷なものだ。町を裏切った門番は、八つ裂きにされて処刑され、その妻も拷問の末に溺死させられたのだった。1440年、実際に二人の門番が処刑されたことは記録に残っており、案外伝説に近い出来事が起こっていたのかもしれない。実際、ネルトリンゲンは、交通の要所にある帝国自由都市として、数々の戦いに巻き込まれている。
この話が起こったとされる2年後の1442年、ネルトリンゲンはアンセルムス・フォン・アイバーグ(Anselm von Eyberg)による攻撃から町を守った。ネルトリンゲンは、帝国自由都市として、要塞化された町の住民を守ることに加えて、神聖ローマ帝国への支援として、軍隊と軍資金を支払う義務もあった。 1474年と1475年のノイス包囲戦でのシャルル(Karl den Kühnen)との戦闘では、皇帝フリードリヒ3世は、ネルトリンゲンから兵士の補給だけでなく、多額の財政的貢献も受けている。
1480年にハンガリーのマティアス・コルヴィナス(Mathias Corvinus)に対する戦闘の際にも援軍を送り、1488年にはブリュージュで捕虜となったマクシミリアン1世を解放するためにも軍隊を派遣した。1448年から1453年にかけてのシュヴァーベン帝国都市の都市戦争(Städtekrieg der schwäbischen Reichsstädte)ではネルトリンゲンにとって財政的負担が大きかった為、市民に対する税金も2倍に跳ね上がったという。
1485年、バイエルン=ランツフート公国の公爵、ゲオルク富裕公(Georg der Reiche)は、6週間にわたって城壁に囲まれた都市を包囲したが、ネルトリンゲンは持ち堪え、攻撃は失敗している。
1488年、神聖ローマ帝国内のシュヴァーベン大公領内での相互防衛を目的として、皇帝フリードリヒ3世の要望とマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネベルク(Berthold von Henneberg)の支援でシュヴァーベン同盟(Schwäbischer Bund)が結成されると、ネルトリンゲンも加わり、22の同盟構成都市の一員として他都市とともに平和維持に貢献した。ネルトリンゲンはオッティンゲン伯爵領の中心に位置し、同盟の義務に加えて、競合する封建領主から帝国都市としての自由独立を守る必要があったのだ。
このように中世以降、ネルトリンゲンは数々の戦いに巻き込まれている。敵による包囲も幾度か経験しているが、町が征服され、破壊されることはなかった。豚の伝説も、市が体験した数々の戦いを象徴するエピソードとして生まれたか、もしくは塔の見張り番が上げる奇妙な掛け声への説明として創作されたのかもしれない。ネルトリンゲン市民は豚への感謝の気持ちから、過去にはこの日を祝ったという。この《ザウ・プレーディクト(Saupredigt)》と呼ばれるお祭りは、18世紀まで続いていたそうだ。レプシンガー門(Löpsinger Tor)の隣には、豚の像が建てられており、この物語を思い起こさせている。
参考:
stadtmuseum-noerdlingen.de, “Kriegerische Auseinandersetzungen”, https://www.stadtmuseum-noerdlingen.de/de/eine-stadt-entsteht/607-kriegerische-auseinandersetzungen
myheimat.de, “So, G`sell, so – und die sogenannte Saupredigt”, https://www.myheimat.de/noerdlingen/kultur/so-gsell-so-und-die-sogenannte-saupredigt-d2541741.html
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