ナウムブルク大聖堂にある美しき彫像
ザクセンアンハルト州のザーレ川とウンシュトルト川の間の丘陵地帯で際立っているナウムブルク大聖堂。この大聖堂の4つの塔は遠くからでも見ることができる。大聖堂は中世の最も重要な文化財の1つであり、その建築と彫刻は世界的にも非常に重要である。
ナウムブルク大聖堂の長さは約100メートルあり、建設は、13世紀と14世紀、建設までに約100年かかっている。大聖堂は、ロマネスク後期からゴシック様式まで、さまざまな建築様式を含んでいる。大聖堂の内装も見どころが多く、砂岩で作られた12体の像は特に有名だ。とりわけ、エッケハルト2世伯爵(Markgraf Ekkehard II.)の妻であるウタ・フォン・バレンシュテット(Uta von Ballenstedt)の彫刻は大きな注目を集めている。
ウタは、アダルバート・フォン・バレンシュテッド伯爵の娘として生まれた。彼女の兄弟、エジコ・フォン・ バレンシュテッド (Esico von Ballenstedt)は、アスカーニエン家の祖先と見なされており、アルブレヒト熊公の曽祖父にあたる。13世紀のナウムブルクの年代記によると、ウタの父親は1026年頃に娘をエッケハルト2世と結婚させた。アスカーニエン家のさらに繁栄させるため、政略結婚として、マイセン辺境伯ヘルマン1世の弟であるエッケハルト2世に嫁いだと思われる。その後、マイセン辺境伯であったヘルマンが死去し、ウタの夫となったエッケハルト2世が、マイセンの支配を引き継ぐこととなった。
ウタが亡くなったとき、夫は持参金の大部分をウタの母国のゲルンローデ修道院(Gernrode)に寄付している。そこでは、ウタの妹のハチェザ(Hacheza)が1044年にハインリッヒ3世によって女子修道院長に任命されている。ウタの死から200年後、ナウムブルクの彫刻家がウタ・フォン・ナウムブルクの等身大の記念碑を建てた。彼女は夫の辺境伯エッケハルト2世とともに、ナウムブルク大聖堂の西合唱団に、教会寄贈者であった12人の彫像の一体として、その姿を今日にとどめている。貴族であるとはいえ、皇帝でも王でもなかった人物の等身大の彫像は、当時としては非常に珍しく、美術史でもユニークな作品である。バンベルク大聖堂にある彫像、《バンベルクの騎士》と同様に、ウタの彫像は、一般的にゴシック芸術の傑作という評価を与えられている。
著書《薔薇の名前》で有名な作家のウンベルト・エーコ(Umberto Eco)は、このウタを「中世で最も美しい女性」と表現した。彼女はマントに身を包み、顔の半分は襟に隠されており、その後ろの表情を読み取ることは難しい。誇り高く、厳格でありながら、神秘的でいて、そして美しい。この彫刻は、貝殻石灰岩のブロックから出来ている。この作品が作られた中世、彫刻で描かれる人々はかなり無表情で記号的に描かれることが多かった。しかし、この彫刻からは、当時としては非常にユニークなリアリズムをそこに見ることができる。
ウタの彫像の作者はわかっていない。作者はおそらく13世紀半ばに、自身の工房とともにナウムブルクに来たことがわかっており、フレンチゴシック様式にインスパイアされた自身の代表作を、わずか6年で作り上げた。
ウタの夫、エッケハルト2世は、由緒正しいエッケハルディン家の出身であり、1034年からはラウジッツ(Lausitz)辺境伯、1038年からはマイセン辺境伯を務めた。神聖ローマ皇帝皇帝コンラート2世と、その息子で後継者であるハインリヒ3世の最も忠実で最も信頼できる協力者であった。コンラート2世が1026年に皇帝に戴冠するためにイタリアへ遠征を行った際も、ドイツ諸侯として唯一コンラートとイタリアに同行したのが、マイセン辺境伯ヘルマンとその弟エッケハルト2世であった。
神聖ローマ皇帝皇帝ハインリヒ3世は、「ボヘミアのアキレス」と言われ、その勇猛を称えられたボヘミア公ブシェチスラフ1世(Bretislaus I.)を含む東方の勢力と争っていた。皇帝ハインリッヒ3世の最も信頼のおける同盟者であったマインツ大司教のバルドー(Bardo)とエッケハルト2世は、皇帝の軍事行動に参加。プラハの東80㎞に位置するフラメッツで1040年に行われた戦闘(フルメッツの戦い、Schlacht bei Chlumec)ではボヘミア側に苦戦したが、ドイツ国境近くで戦われた2度目の戦闘(ビワンカの戦い、Schlacht bei Biwanka)の結果、 ボヘミア公ブシェチスラフ1世は皇帝軍と平和条約の締結を余儀なくされた。ボヘミア公との対戦では、派遣軍のほとんどが戦死したと言われるほど激しい戦いであり、その戦闘に参加したエッケハルトと皇帝は、強いつながりがあったと思われる。皇帝に忠誠を尽くしたエッケハルトであったが、1046年、ザクセンで流行した疫病により死亡。皇帝ハインリッヒ3世は、最も忠実な助言者を失ってしまう。ナウムブルク大聖堂で行われたエッケハルトの葬儀には、皇帝も参列している。妻のウタとの間に子供がいなかった為、出身であるエッケハルディン家はここで途絶え、その所領は皇帝領に編入された。
ウタの彫像が注目を集め、彼女への賞賛が始まったのは、19世紀だと言われている。その後、彼女のイメージは、ナチスにも利用され、ウタはドイツ人女性の模範とされたのだった。彼女の絵や写真が多くのドイツ人の家に飾られることになった。ウォルト・ディズニー(Walt Disney)が、1937年に作成した自身のアニメーション映画「白雪姫と七人の小人」で白雪姫の邪悪な継母にウタ・フォン・ナウムブルクのモチーフを使用したのも、こういった歴史と関係があると考えられている。
エッケハルト2世とウタの像以外にも、ナウムブルク大聖堂には見どころが多い。大聖堂には、中世とルネッサンスの優れた30点の芸術作品を保管する宝物庫があり、ルーカス・クラナッハによって作成された祭壇画も含まれる。また、ライプツィヒの画家ネオ・ラオホ(Neo Rauch)が2007年に設計し、大聖堂に寄贈した、テューリンゲンの聖エリザベスの生涯をモチーフにした3枚のステンドグラスも見ものである。
参考:
merian.de, “Naumburgs Dom und die schöne Uta”, https://www.merian.de/deutschland/sachsen-anhalt/naumburgs-dom-und-die-schoene-uta
“Ekkehard II., Markgraf von Meißen”, 13. September 2010, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/artikel12216.html
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