ローテンブルク中世犯罪博物館

ローテンブルク

ローテンブルクにある中世犯罪博物館は、1977年以来、中世を中心とした1000年以上のヨーロッパの法史に関する50,000の品を展示している。中世の犯罪に関する展示物の他に、武具、中世の法律、帝国に関する展示物、そして処刑や拷問に使われた器具の数々が展示されている。拷問器具に関しては、人間は人を傷つける為にこれほどまでクリエイティブになれるのかと深く考えさせられる。また魔女狩りに関する展示物も多い。筆者がこの博物館を訪問した際には、展示物を見学していた老婆が気分を悪くして座り込んでおられた。

この本のイラストは、拷問刑の執行者が、その尋問の様子を記録していた判事と裁判官の前で、どのように足にネジを打ち込むかを示している。ヨハネス・ミロウ(Johannes Millaeus)、パリ、1541年。

18世紀に一般的に使われていた拷問方法のコレクション。指、親指、足を破壊する器具。クリスチャン・ウルリッヒ(Christian Ullrich)のグループ作。《拷問器具の使用方法》、ハノーファー、1754年作。

皇帝による定款および保護状。西暦936年9月13日、神聖ローマ皇帝オットー1世が自身が設立したクヴェトリンブルク女子修道院を王の保護下に置き、独立運営を認め、独自の修道院長選出権を付与したという内容。皇帝オットー1世に関する最古の文献と言われる。この封蝋は神聖ローマ皇帝オットー1世を表す印である。

この免償権限証は、ザルツブルク司教区の聖レオナルド礼拝堂(St.Leonhard)に対するものであり、この教会の定められた祭礼に参拝し、ミサ典書および聖杯の購入のための奉納をしたものに対し、100日間免償を付与する権利を認めるものである。この見た目にも豪華な証書は、騎士ヨハネス・フォン・キューナッハ(Johannes von Künach)の求めに応じて、11名の枢機卿により付与された。

教皇の大勅書。1554年、ローマ教皇ユリウ3世(Julius III)によるもの。ニコラウス・オラウス(Nikolaus Olahus)をエアラウ司教区(Erlau)の司教に任命する旨が記載されている。教皇庁では、封鉛が施され、公式文書として認められたものがローマ教皇大勅書と呼ばれている。鉛の封印のことをラテン語でブッロ(Bullo)といい、ドイツ語で大勅書を表すブッレ(Bulle)の語源になった。

文書は羊皮紙に書かれ、麻紐と封鉛が施されている。1554年。

焼き印。罪人にとって中世は古き良き時代であった。ドイツは300余国に分かれており、罪を犯した後は、国境さえ超えてしまえば、逃亡は簡単であった。ローテンブルクの場合、タウバー渓谷を超えるだけで、ホーエンローエ(Hohenlohe)、現在のバーデン=ヴュルテンベルクに入ることができた。罪人を見分けやすくする為、罪人のうなじや額には焼き印が押された。各国は、絞首台や車輪など、独自の意匠が入った焼き印を持っていた。(上記の写真では、AやBなどの文字が入った烙印が見られる。)

アイゼルネ・ユングフラウ(Eiserne Jungfrau)と呼ばれる中世ヨーロッパで刑罰や拷問に用いられたとされる拷問具。日本語では「鉄の処女」、英語では「アイアン・メイデン(Iron Maiden)」と呼ばれる。この容器の内側には、多数の釘が打ち込まれている。実際には使用されなかったという説もある。

この拷問器具のデザインを普及させた最も有名な「鉄の処女」はニュルンベルクで作られたもので、その為、「ニュルンベルクの処女」と呼ばれることもある。早くも1802年に展示された可能性がある。オリジナルは1945年にニュルンベルクでの連合軍の空襲中に失われた。オリジナルのコピーは、ロンドン、アメリカを経由した後、1960年代初頭に競売にかけられ、現在はこの中世犯罪博物館に展示されている。

伝説によれば、死刑囚はこの容器の中に立たされ、扉が閉じられると、内部に仕込まれていた釘によって、体に穴が開けられた。釘は臓器まで達して即死させないように短く設計され、死刑囚がより長期間苦しみ、流血により死亡するよう設計されていたとも言われた。処刑後、死体は地面の開口部から下の川へと落とされた。この処刑方法は、「処女のキス」と呼ばれ、処刑を含めたプロセス全体が秘密裁判としてと行われたとされる。1533年のニュルンベルクの年代記によると、この方法は1515年8月14日に最初に使用され、コインの偽造者が処刑されたという説がある。しかし、この研究も信憑性に乏しいと言われる。

釘は後世になってから取り付けられたという説もあり、ローテンブルクの中世犯罪博物館の「鉄の処女」からも釘は取り外されている。(確かに、釘が体に刺さっていれば、下の開口部を開いたところで、死体を下の川へと落下させることはできなかっただろう。)

符木(しるし木)。借金のメモ代わりとして使用された。通い付けの飲み屋に符木を持っていき、付けの分を刻んでもらった。符木が刻み目でいっぱいになった時や、秋の収穫の後でお金が入ったときなどに、支払いが行われた。この風習から、今日もドイツ語で「借金のある」ことを「符木に多少刻みが入っている」(ドイツ語:Etwas auf dem Krebholz haben)という。

この冠は、その形状から、[アーチ付きの冠]という意味で、ビューゲルクローネと呼ばれる。現存するヨーロッパ最古の帝冠であり、この博物館に飾られているのは、実物に忠実に作られたレプリカである。オリジナルはウィーン王宮の所蔵となっている。

これは、神聖ローマ皇帝が使用していたもので、東フランク王国コンラート2世が、1027年にローマ教皇から戴冠を受け、皇帝となった際のものと推測される。この帝冠は、帝国の帝位の表象の一部であり、支配権を表すものとして、戴冠式で使用された。この種のもので最も古くから存在しているのはカール大帝時代のものである。特にこの帝冠には、旧約聖書や新約聖書に由来する象徴や引用が数多く施されている。

この黄金の帝冠は、大きさの異なるヒンジで繋がれた8枚のアーチ型のプレートで構成されている。十字架と上部のアーチは、挿入されている。もともとこの帝冠は分解が可能で、皇帝が帝国内を移動する際には常に携帯されていた。この帝冠は円形ではなく、8角形の底面形状をしているが、8というのはキリスト教においては完全を表す神聖な数字である。特にイエスが復活後、8日経ってまた現れたという言い伝えに関連している。アーヘン大聖堂や、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、および初期のキリスト教の受洗聖堂などの主要な教会建築物は8角形の構造を持っている。

一番大きなプレートは、宝石のプレートと呼ばれ、真珠や様々な宝石、繊細な金細工が施されている。それ以外の小さなプレートは、七宝焼きの技法が使われ、人物像や文字が施されている。真珠や宝石の台座部分には穿光が施され、これにより美しい光の効果が得られている。

耳や人差し指を切断する為のナイフ。鉄と木。17世紀または18世紀の作。

処刑人の剣。剣には、[SOLI DEO GLORIA] という文字と、[GEORG GEBHARDT]の名前が刻印されている。鉄の鯉口が付けられた革製の鞘とセットである。刃の両側に見られるのは、ゾーリンゲンの鍛冶屋ヨハン・ブンダー(Johann Wunder)のマークである。保存されている数少ない処刑人の剣である。所有者は、中央ドイツの有名な死刑執行人の家族の子孫であるゲオルク・ゲブハルト(Georg Gebhardt)であったと推測される。彼の先祖は、ザーレ河畔のハレ、マグデブルク、ゴメルン(Gommern)の死刑執行人であった。

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