黒羊と噛まれた公爵

ゴータ

ゴータ(Gotha)の町の行政区にフリードリヒローダ(Friedrichroda)と呼ばれる地区がある。そこには、ラインハルツブルン城(Reinhardsbrunn)と呼ばれる城がある。この城に付随する教会には、マイセン辺境伯ならびにテューリンゲン伯フリードリッヒ1世(Friedrich I.)の墓石が収められている。

ラインハルツブルン城(Source:wikipedia.de)
ラインハルツブルン城の教会にあるフリードリッヒ1世の墓標(Source:effigiesandbrasses.com)

フリードリッヒ1世は渾名を《噛跡公》という。「噛まれた跡」と名付けられたのには理由がある。彼はシュタウフェン朝による帝国の崩壊後、彼はテューリンゲン伯ならびにマイセン辺境伯となった。

ドレスデンの《君主の行列》に描かれたフリードリッヒ1世(Source:wikipedia.de)

1268年、バルバロッサの曾孫コンラディン(Konradin)がナポリで処刑された後、北は北海、南はシチリアにまで跨るシュタウフェン朝の皇帝が治める帝国がついに崩壊した。しかし、テューリンゲン州には、シュタウフェン朝の皇帝の別の子孫がいた。後のヴェッティン方伯とホーエンシュタウフェン家の子息であるフリードリヒ1世である。彼こそ最後のシュタウフェン家の王であった。

彼は一生をかけて祖先の土地の相続のために戦った。「山で眠っている皇帝」というキフホイザーに伝わる伝説も、もともとはこの最後のシュタウフェン王にまで遡る。後になって、彼よりはるかに有名な祖先である皇帝フリードリヒ・バルバロッサがこの伝説上の皇帝として語られるようになった。

フリードリッヒによる権力の掌握は何度も運命によって打ちのめされたのだった。しかし、鉄の意志をもつフリードリッヒは、父親のアルブレヒト堕落伯(Albrecht des Entarteten)による裏切りにも、ハプスブルク家の政治的陰謀によっても決して絶望することはなかった。その為、《噛跡公》のほかに勇敢伯(der Freidige)という二つの渾名を持っている。

後に《堕落伯》と呼ばれるマイセン辺境伯アルブレヒト2世は、父親であるヴェッティン家のマイセン辺境伯、ハインリヒ3世貴顕伯からテューリンゲンとザクセン宮中伯領を引き継いだ。アルブレヒトは、1254年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の娘マルガレータ・フォン・シュタウフェン(Margaretha von Staufen)と結婚した。アルブレヒトはマルガレータとの間にハインリヒ、フリードリヒ、ディーツマン、アグネスの4人の子供をもうけている。初めは2人の仲は良好だったが、やがてアルブレヒトはマルガレータを捨て、妻の侍女であるクニグンデ・フォン・アイゼンベルク(Kunigunde von Eisenberg)を愛人とした。

アルブレヒト2世とマルガレータ・フォン・シュタウフェン(Source:wikipedia.de)

シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝であるフリードリッヒ2世の娘として誇り高きマルガレーテにとっては、夫が自分の侍女を愛人とすることは到底我慢できないことだっただろう。愛人クニグンデと一緒になることを望んだアルブレヒトは、妻であるマルガレーテの殺害を計画した。この計画は失敗に終わったが、マルガレータは、夫の元を去る以外に選択肢はなかった。ヴァルトブルクを去る際、マルガレータは、愛する4人の子供たちを残して行かなければならなかったが、身の危険が迫っていたため、子供たちにゆっくり別れを告げる時間さえなかった。なかでも、フリードリッヒにはキスを浴びせ、別れの辛さから彼の頬を噛んだといわれ、フリードリッヒの頬に小さな傷跡を残した。このエピソードによりフリードリヒは噛跡公(der Gebissene)と呼ばれるようになったのだ。

そして、1270年6月24日、マルガレータはヴァルトブルクを去った。失意のマルガレーテは、まずクライエンブルク(Krayenburg)に行き、そこからヴェラ(Werra)にあるクロイツベルク修道院(Kloster Kreuzberg)に行ってから、フルダ(Fulda)へと向かった。そして最終的にフランクフルト・アム・マインへとたどり着いたが、悲しみのあまりその年の内に亡くなってしまった。

マルガレーテの死後、アルブレヒトは愛人のクニグンデと再婚している。前妻マルガレーテ殺害の計画がうまくいかなかったこともあり、アルブレヒトはその憎しみをマルガレーテとの子供たちに移し、彼らがテューリンゲンを継承させないよう画策した。アルブレヒトは、後妻のクニグンデと、彼女との間に生まれた息子アピッツ(Apitz)を偏愛し、アピッツにテューリンゲン方伯位を継がせようとしたのだ。このことに反発したフリードリッヒ噛跡公は、実の父親と決別。そして戦争を開始する。

戦争開始当初こそ、フリードリッヒの劣勢であったが、後に戦局を巻き返し、父親を捕縛することに成功。神聖ローマ皇帝ルドルフの仲裁もあって、アルブレヒトは解放されている。懲りないアルブレヒトは、自身の息子への復讐戦を行う為に、各地の諸侯を扇動しようしたが、どれも成功しなかった。そこで、アルブレヒトは自分の領土を息子に取られるならばと、土地を売却しだした。そして周りの反対も聞かず、1294年にテューリンゲンのすべてを94,000グルデンでルドルフ皇帝の後継者であるアドルフ・フォン・ナッサウ(Adolf von Nassau)に売却したのだった。しかし、1298年、アドルフが戦死したことで土地は返還された。

アルブレヒトは、クニグンデが逝去した後は、エリザベス・フォン・アルンシャウク(Elisabeth von Arnshaugk)という女性と3度目の結婚をしている。彼が溺愛したクニグンデとの間の息子、アピッツは彼より先にこの世を去ってた。フリードリッヒ噛跡公は父アルブレヒトと和解し、テューリンゲンを譲り受けている。因みに、母親につけられた頬の噛み跡(とされる傷跡)は、生涯フリードリッヒの頬に残ったという。後妻の息子を溺愛した為に、実の息子との内戦を招いたアルブレヒトには、「堕落伯」という不名誉なニックネームが付けられ、その死後も《ヴェッティン家の黒い羊》と呼ばれるのであった。

参考:

mdr.de, “Friedrich der Gebissene – Der letzte Staufer”, 13. September 2010, https://www.mdr.de/geschichte/weitere-epochen/mittelalter/artikel124932.html

saechsische.de, “Friedrich der Gebissene”, 24.12.2005, Kerstin Klauer-Hartmann, https://www.saechsische.de/plus/friedrich-der-gebissene-1264717.html

zeno.org, “Friedrich der Gebissene”, http://www.zeno.org/Brockhaus-1809/B/Friedrich+der+Gebissene

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