デュッセルドルフ市立博物館

デュッセルドルフ

博物館内部の様子。常設展示のほかにも特別展示が行われる。

博物館内部。

ベンラート(Benrath)の聖セシリア教会の鐘。1454年に鋳造された。セシリア教会は13世紀に建設された。

デュッセルドルフのランベルトゥス教会の鐘。鐘は1647年の作。ジークブルク(Siegburg)のベネディクト会修道院で使われていたが、1812年の修道院の世俗化の後、ランベルトゥス教会へと移された。1987年まで実際に使われていた。

カイザースヴェルトに存在した皇帝の居城。このモデルは、1931年の作。

中世後期に使用されていた樫の木でできた水道管。14世紀後半からデュッセルドルフ城で使用されており、市のインフラを担っていた。

1710年4月1日、選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは、新市街(Neuestadt)の拡張を宣言し、この礎石を作成させた。しかし、この礎石がおかれることはなかった。ヨハンはこの拡張計画により、市の面積を2倍に使用とおり、南側へは、現在通りの名前として残るフュルステンウォール(Fürstenwall)までの拡張を計画していた。

ゲオルク・カサンデル(Georg Cassander)。作者不明、16世紀末。神学者カサンデルは、その著作の中で、カトリックとプロテスタントの仲介になりたいと述べていた。彼の考えは、デュッセルドルフ宮廷の宗教政策に大きな影響を与えたと言われる。

ヴィルヘルム・ファブリウス(Wilhelm Fabrioius)。1627年作。作者不明。ヒルデン(Hilden)で生まれたファブリウスは、ルネサンス期の最も重要な外科医とされている。外科医として、ヴィルヘルム富裕公の宮廷医であった。実用医学の為に解剖の必要性を説いた。

ゲルハルト・メルカトル(Gerhard Mercator)。作者不明。16世紀の作。メルカトルは、現在の地図作成の創始者と考えられている。彼はデュースブルク(Duisburg)で暮らし、そこで地理学者、数学・地理学の道具の考案者であった。その地球儀で有名となった。1564年、ユーリッヒ=クレーフェ=ベルクのヴィルヘルム5世の宇宙誌家(cosmographer)となった。

アントーニァ(Antonia)、ロートリンゲン公爵妃、ユーリッヒークレーフェーベルク公。1599年、アントーニャは、精神病であったヨハン・ヴィルヘルムの2番目の妻となった。彼女は夫の病気を治そうと試みたが、成功はしなかった。二人の間に子供はいなかった。

ヴィルヘルム5世(富裕公)ユーリッヒークレーフェーベルク公。ヨハン・マルタイン(Johan Malthain)作。病身のヴィルヘルム5世を描いている。クレーフェ方伯ヨハン3世とユーリッヒークレーフェ伯マリアの間に生まれた唯一の息子であった。引き継いだその領土の広大さから《富裕公》と呼ばれた。1566年、最初の発作を起こし、晩年は統治能力はなかった。

マリア(Maria)、オーストリア大公妃、ユーリッヒークレーフェーベルク公。ハンス・ベッサー(Hans Besser)作。1555年頃の作品。皇帝フェルディナント1世の娘であり、カール5世の姪。15歳で、ヴィルヘルム富裕公に嫁いでいる。結婚に際して、カール5世は富裕公に、男系の子孫が断絶した場合、公位が娘たちに継承されることを承認した。

カール5世。神聖ローマ皇帝、スペイン王。作者不明。17世紀の作。カール5世は、1515年からスペイン王、1519年から神聖ローマ皇帝。日の沈まぬ帝国を実現。カール5世は、ヴィルヘルム富裕公に、ゲルデルン公国(ヘルレ公国)とズトフェン公国(Zutphen)の支配を諦めさせた。1547‐48年には、プロテスタントによるシュマルガルテン同盟をミュールベルクの戦いで打ち破っている。

《1543年のフェンロ―での服従を描いた皿》、作者不明。1555‐56年作。ヴィルヘルム富裕公のカール5世に対するフェンロ―(Venlo)での服従を描いている。富裕公は、ゲルデルン公国の領有をめぐって、皇帝カール5世と争っていた。この展示品は、1555‐56年に、ディルク・フォルカーツ・コルンヘルト(Dirk Volkertsz Coornhert)が制作し、カール5世の紋章が描かれている、いくつか存在する銅製の皿のひとつである。

ハルバード(Hellebarde)と呼ばれる歩兵が使用した武具。13世紀に発明され、敵を突いたり、引き裂いたりできるほか、馬上の騎士にひっかけて馬から引きずり下ろすことができた。棒を表すハルム(Halm)と、斧を意味するベルテ(Berte)の造語とされる。展示のハルバードは16世紀のもの。16世紀からは警備兵の装備とされた。

東方三博士のレリーフ。16世紀から生き延びた珍しい作品。もともとは、ボルカー通り(Bolker Str.)45番の《三博士》と呼ばれた家のものであると推測され、その用途は、家名をわかりやすくする為だと思われる。18世紀の建物に取り付けてあったものを取り外した。

《ペンペルフォルトの騎馬トーナメント》。馬上試合で、ヤコベ・フォン・バーデンは勝利した夫にプレゼントを渡している。試合の最後には花火が打ち上げられた。

《ヘラクレス劇》1585年6月18日の花火。フランツ・ホーゲンベルク(Franz Hogenberg)作。デュッセルドルフ城の前のライン川に筏が設置され、その上でヘラクレスの劇が演じられた。劇の最後には花火が挙げられた。

《ユーリッヒの結婚ー1585年》この本は、ヨハン・ヴィルヘルムとヤコベ・フォン・バーデンの結婚式を伝えている。銅板への彫刻作業は、フランツ・ホーゲンベルク(Franz Hogenberg)による。このページでは、デュッセルドルフ城と町が見て取れる。この展示品は、おそらく結婚式に参加したヴィルヘルム・フォン・ボルガルド(Wilhelm von Bongard)とその妻マルガレーテ・フォン・パラント(Margarethe von Paland)の所有物であると見られている。

《カイザースヴェルトからのハインリッヒ4世の誘拐》アントン・アレクサンダー・フォン・ヴェルナー(Anton Alexander von Werner)による1868年の作。《叙任権闘争》、《カノッサの屈辱》で有名な神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世が、11歳のころ、ケルン大司教アンノによってカイザースヴェルトで誘拐された実話がモデル。当時は、ハインリッヒ4世の母親、アグネスが摂政を務めていた。

1989年に作成された城の模型。1585年頃のデュッセルドルフ城を表している。デュッセルドルフがユーリッヒ・クレーベ・ベルク伯の居城となってから、ヴィルヘルム5世伯は1550年にイタリアの要塞建築家アレッサンドロ・パスカリーニ(Alessandlo Pasqualini)に城の改築を要請。以来、城は中庭をもった3翼からなる建築になり、通り側には、印象的な二つの塔が配置されるレイアウトとなった。

ケレスティン修道院の聖母マリア(Schutzmantel-Madonna aus der Coelestinerinnen Kloster)。聖母マリアが修道女たちを自身のマントで守っている。古の法律によると、告訴された者は高貴なものに守られると言われた。1639年設立のデュッセルドルフの最初の女性修道院とされる。1642年から、修道女たちは現在の旧市街にあるラーティンガー通り(Ratinger str.)に暮らしていた。

(左)ヨハン・シュピーゲル(Johann Spiegel)による1648年の作。ユーリッヒ=ベルク公爵、ノイブルク=ラインのプァルツ伯、ヴォルフガング・ヴィルヘルム(Wolfgang Wilhelm)を描いた作。アムステルダムのゴーベルト・フリンク(Govaert Flink)のもとで学んだシュピーゲルをヴォルフガング・ヴィルヘルムが宮廷画家に採用。彼の手になる肖像画は、ベルンスベルク城(Bernsburg)のファミリーギャラリーにある。

(右)同じく、ヨハン・シュピーゲルによる1648年の作。ツヴァイブリュッケン公爵妃、ユーリッヒ=ベルク公爵妃、ノイブルク=ラインのプァルツ伯妃、カタリーナ・シャルロッテ(Katharina Charlotte)。ヴォルフガング・ヴィルヘルムはプァルツの一族の絆を強くしたいと考え、姪であるカタリーナと結婚。カタリーナはヴィルヘルム富裕公(Wilhelm der Reich)の直接の子孫であった。ヴォルフガングは、妻をカトリックに改宗させようとしたが、カタリーナはプロテスタントを貫いた。

1750年頃のデュッセルドルフ城。カール・テオドール(Carl Theodor)は、城を改修・拡張させた。この時、最上部の胸壁(兵士を防御する為の低い防壁)を撤廃し、4階建ての建物に改修している。この頃、新しい屋根も取り付けられている。

カール・テオドール(Carl Theodor)。アントン・ヒッケル(Anton Hickel)作のレプリカ。プァルツ選帝侯、ユーリッヒ=ベルク公爵、聖ゲオルク騎士団長。カール・テオドールは、上半身の中央に騎士団章を付けている。背後(向かって右上)には、バイエルン選帝侯領とプァルツ選帝侯領の紋章を持った2体の天使がお互いに抱き合っている。これは1777年に、バイエルンのヴィッテルスバッハ家が断絶し、プァルツがバイエルン選帝侯領も引き継いだことを表している。

エリザベート・アマーリエ・マグダレーナ(Elizabeth Amalie Magdalena)。ヘッセン=ダルムシュタット伯、ライン=ノイブルクのプァルツ伯、ユーリッヒ=ベルク公爵妃、1685年からプァルツ選帝侯。1654年、ヨハン・シュピールゲルク作。ヘッセン=ダルムシュタット方伯、ゲオルク2世の娘。1653年にフィリップ・ヴィルヘルムと結婚。子宝に恵まれ、14名が成人を迎えている。ベッドの上に座る娘は、1655年に誕生しているが、絵画は1654年作であるので、後に描き足されたとみられる。

作者不明。フィリップ・ヴィルヘルム。ライン=ノイブルクのプァルツ伯、ユーリッヒ=ベルク公爵、プァルツ選帝侯。三十年戦争後の1685年、フィリップは選帝侯に選ばれた。彼は、娘を欧州中に嫁がせており、「カトリック・ヨーロッパの義理の父」というニックネームを付けられている。

(左)レオポルド1世。神聖ローマ皇帝、オーストリア大公。作者不明。1658年に皇帝に戴冠。教会に入る可能性が大きかったが、兄のフェルディナントが急死したことで、急遽王位に就いた。語学の才があり、学問を好んだ。才能のある作曲家であったと伝わる。

(右)エレオノーレ・マグダレーナ・テレジア(Eleonore Magdalena Theresia)、ライン=ノイブルクのプァルツ伯、ユーリッヒ=ベルク公爵、皇帝妃。フィリップ・ヴィルヘルムの長女。1676年、皇帝レオポルド1世の3番目の皇妃となった。とりわけ敬虔なカトリックであったと言われる。しばらくは皇帝の摂政も務めた。二人の皇帝、ヨーゼフ1世とカール6世の母。

(右)スペイン王カール2世。ヴィルヘルム・フマー(Wilhelm Humer)作。ハプスブルク家最後のスペイン王。母親と2番目の妻、マリア・アンナ・フォン・プァルツ=ノイブルク(Maria Anna von Pfalz Neuburg)の影響かにあった。カール2世の死によって、ハプスブルク家のスペイン系は断絶。スペイン継承戦争が勃発する。

(左)マリア・アンナ・フォン・プァルツ=ノイブルク。ヴィルヘルム・フマー作。1689年、スペイン王カール2世と結婚。子供はいなかった。政治的活動を行った為に、スペイン王宮に幽閉された。スペイン王位をハプスブルク家の甥カールに譲渡しようとした。夫の死後は、未亡人として、フランスとスペインで逃避生活を送った。

(右)フランチェスコ・マリア・ファルネーゼ(Francesco Maria Farnese)、パルマ公。作者不明。

公爵は18歳のときに、26歳の兄の未亡人と結婚したが、二人の間に子供はいなかった。

(左)ドロテーア・ソフィア(Dorothea Sophia)、ライン=ノイブルクのプァルツ伯、パルマ公妃。

作者不明。1700年頃の作品。ドロテーアは1690年にパルマ公、オドアルド・ファルネーゼ(Odoardo Farnese)と結婚。1696年にオドアルドの後継者であるフランチェスコ・マリア・ファルネーゼと結婚。娘のエリザベートはスペインのフェリペ5世と結婚し、男系が途絶えたファルネーゼ家のパルマとピアチェンツァをもたらした。

ヨハン・ヴィルヘルム(Johann Wilhelm)。プァルツ選帝侯、ユーリッヒ=ベルク公爵。ヤン・フラン・ドゥ―ヴェン(Jan Frans Douven)1708年頃の作。手に持つ帝国杖は、帝国の代表としての選帝侯の職務を表している。ヤン・フラン・ドゥ―ヴェンは、1682年に宮廷画家となり、ヨハン・ヴィルヘルムや宮廷メンバーの多くの肖像画を描いている。

アンナ・マリア・ルイーザ・ディ・メディチ(Anna Maria Louisa de Medici), トスカーナ大公妃。

作者不明、1691年頃の作。右手に握った薔薇の花と、左手の花束は結婚が近いことを示唆している。大公妃には、フランス王位継承者を含む大勢の結婚候補がいたが、1619年5月、プァルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚している。

トスカーナ大公、コジモ3世・ディ・メディチ(Cosimo III de Medici)。ヤン・フラン・ドゥ―ヴェンの1700年頃の作。コジモは1670年以降フィレンツェを統治。ハプスブルク家がトスカーナ公との同盟に興味のあったことにより、皇帝レオポルド1世の義理の兄弟であるヨハン・ヴィルヘルムが、コジモ3世の娘、アンナ・マリア・ルイーザと結婚することとなった。コジモ3世は、義理の息子となった選帝侯に、イタリアの芸術家を紹介したと言われる。

1795年9月6日、《フランス軍がライン川を越えてデュッセルドルフに進軍》19世紀。1795年9月5日の深夜、サンブルエムズ軍(Army of Sambre and Meuse)がライン川を渡り、デュッセルドルフならびにライン川右岸を占領。

ジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat)、フランス元帥。ベルク大公。作者不明、1805年頃の作。

1806年3月、ジョアシャンはナポレオンにより、ベルク大公に任命される。1808年7月、ナポリ王となったことでベルク大公位はナポレオンに返却している。

ナポレオンによるベルク=クレーフェ大公位のルイ・ナポレオンへの譲渡状。1809年3月3日、ナポレオンは自身の甥で、オランダ王ルイの息子、ルイ・ナポレオンをベルク大公位に任命。ルイ・ナポレオンはこの当時わずか5歳であったため、フランスの政治家ビューノット(Beugnot)が代理を務めた。

1811年11月3日、ナポレオンのデュッセルドルフ入城。馬にまたがったナポレオンが、エルバーフェルダー通り(Elberfelder str.)の凱旋門を通って、デュッセルドルフに入城している。この門は、ナポレオンが1811年11月2日から5日まで滞在するときの為だけに建設された。

デュッセルドルフのゴルツハイム墓地にある造園家マキシミリアン・フリードリッヒ・ヴァイエ(Maximilian Friedlich Weyhe)の墓石。

フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィッヒ(Friedrich Wilhelm Ludwig)、プロシア王。テオドール・ヒルデブラントの1836年の作。プロイセン王フリードリッヒ3世ヴィルヘルムの甥は、14軍団の司令官であり、1821年にデュッセルドルフに来ている。彼はアンハルト=ベルンブルク妃、ヴィルヘルミーネ・ルイーズ(Wilhermine Luise)と結婚。アレクサンダーとゲオルグの二人の子供を設けた。

ヴィルヘルム・シャドー(Wilhelm Schadow)の自画像。

実業家フリッツ・ヘンケル(Fritz Henkel)は、1878年に自身の小さな会社をアーヘンからデュッセルドルフに移している。1900年頃からそこで主に洗剤を製造し、1907年、ぺルジル(Persil)という製品を完成させ、現在でもドイツ中で販売されている。

破壊されたメンデルスゾーン像のレプリカ。フェリックス・メンデルスゾーン・バルトロディ―(Felix Mendelssohn Bartholody)は、ユダヤ人作曲家であったことから、彼の銅像はナチ政権によってふさわしくないという理由で、1936年に破壊された。メンデルスゾーンは1833年から35年までデュッセルドルフに滞在し、音楽監督を務めているが、彼のキャリアのなかではあまり重要視されていない。むしろ、彼の名前は、デュッセルドルフの音楽の最盛期を演出したロベルトとクララ・シューマンとともに連想されることが多い。

アウグスト・フォン・ヴィレ(August von Wille)による1872年の作品。油絵。この火災により、デュッセルドルフのシンボルともいえる城が消失した。ルネサンス様式の塔だけが今日にも残っている。

ラウラ・ラジンスキー(Laura Lasinsky)による19世紀に撮影された写真。消失した後のデュッセルドルフ城。

デュッセルドルフ城に幽閉され、そこで死亡したヤコベ・フォン・バーデンの髪の毛。ヤコベは、当初クロイツヘレン教会(Kreuzherrenkirche)に埋葬されていたが、ランベルトゥス教会に埋葬され直す時に、遺族が髪の毛の一部を切り取った。19世紀末、髪の毛は肖像画とともに市立博物館に寄贈されたが、肖像画は残っていない。 

イギリス人であるフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)は、1850年に短期間、1851年に3か月間、カイザースヴェルトで看護を学んでいる。

市立博物館の地下階の様子。

博物館内部から中庭の眺め。

デュッセルドルフの市立博物館は、シュぺーシャー・グラーベン(Spee’scher Graben)の公園のすぐ隣にある。

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