錬金術師と白い黄金

マイセン

【アルブレヒツ城】

エルベ川の畔にあるザクセンの古都マイセン。丘の上に聳えるのは、後期ゴシック様式で建てられたアルブレヒツ城(Albrechtsburg)だ。この城は、1470年にアーノルド・フォン・ヴェストファーレン(Arnold von Westfalen)によって、後期ゴシック様式で建てられた城である。第二次世界大戦中の爆撃でも比較的被害が少なかったことから、古い街並みを今に残している。

マイセンのアルブレヒツ城(筆者撮影)

またザクセン地方は、ドイツのワイン製造の最北東に位置し、最高品質の白ワインで有名だ。マイセンからドレスデンを挟んでピルナ(Pirna)までの間には、エルベ川沿いにワイン製造用のブドウ畑が広がっており、このあたりはザクセンワインの一大産地である。しかし、何と言ってもこの町を世界的に有名にしているのは、ヨーロッパを代表する高級磁器「マイセン磁器」だろう。1710年から1863年まで、磁器はこのアルブレヒト城で製作されていた。

マイセン磁器を発明したヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)は、1682年、シュライツ・アン・デア・ザーレ(Schleiz an der Saale)に生まれている。彼はもともと薬剤師であった。父親は造幣局に勤め、母親もマクデブルクにあったブランデンブルク造幣局に勤めていた。

ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー (Source:sueddeutsche.de)

ベトガーは14歳のとき、ベルリンの薬剤師フリードリッヒ・ツォルン(Friedrich Zorn)に弟子入りし、そこで錬金術に興味を持ち始めている。1701年に、ベドガーは親方であるツォルンと他に3人の目撃者の前で銀を金に変えたと言われている。不思議なギリシャ人の僧侶ラスカリス(Lascaris)が金を作る秘密を教えたと言われている。その僧侶が去ったとき、2オンスの赤い粉が入った小瓶を残しており、それで33グラムの金を作ることができたという。

もちろん、錬金術などではない。金を創出できなくとも、金メッキは可能である。金を水銀に融かすと金アマルガムとなる。銅の表面を磨き上げてから金アマルガムを塗り加熱すると、水銀のみが蒸発して表面に金が残る。ベドガーはこのトリックを使って銀を金に「変えた」と考えられる。ベドガーの並外れた能力についてのうわさは、ザクセン州のヴィッテンベルクまで聞こえるようになった。ベドガーはプロイセン王から逮捕状が出たため、ザクセンへと逃亡したのだった。

ブランデンブルクープロイセンとザクセン間の外交交渉で終わったあと、ベルガーはドレスデンに連れて行かれ、そこで「強王」と呼ばれるアウグスト2世は彼の身柄の安全を保証したが、安全上の理由からフュルステンベルク家の地下室に幽閉した。1714年からの12年間、ベドガーはアウグスト強王の個人的な錬金術師として、わりと豪華な地下室と実験室の間を行きかう生活がはじまった。

彼は、ポーランド国王を兼ねる選帝侯アウグスト強王に金を提供することになっていた。しかし、1713年3月20日、アウグスト強王とその側近たちの前で金を作り出すデモンストレーションを行ったものの、王が期待したような成果は上げることができなかった。

アウグスト2世(強王)(Source:de.wikipedia.org)

にもかかわらず、市の要塞の隣、住宅宮殿の近くにある、錬金術師が集う「ゴールドハウス」と呼ばれる建物があり、ベドガーはそこで王の恩寵を受けているかのように生活することができた。部屋には自分のビリヤードルームがあり、食事は、宮殿の厨房から配膳させることも許可されていた。

昼食と夕食時には、自身の訪問客ために、ワインとビールそして5品の料理が出されていた。ベドガーは見栄えが良く、面白い仲間と見なされ、豪華なパーティーを開いたり、宮廷の女性と賭け事に興じたりと快適な生活を送っていた。ベドガーが唯一できなかったこと。それは金を作ることだった。

アウグスト強王も徐々に忍耐の限界を迎えていた。エドガーは、金の作成に失敗した錬金術師たちが、厳しく罰せられたり、時には絞首刑にされたりするニュースを聞くたびに恐怖を感じざるを得なかった。 自身の環境に絶望したベトガーは、1703年、プラハ、ウィーン、エンス(Enns)へと逃亡。しかし、すぐに捕らえられ、ドレスデンへ連れ戻されている。それ以来、一層厳重な警備下に置かれることとなった。

その頃、実は金よりも貴重とされているものがあった。それが陶磁器だ。その製法は、206年頃の漢王朝から数えて1500年以上もの間、中国人だけの秘密であった。アウグスト強王自身、中国の陶磁器の購入に際して、代金を兵士で支払うほとであった。そんな極東の宝とも呼べる陶磁器に対して、 ヨーロッパの王室・貴族は莫大なお金を喜んで支払ったので、「白い黄金」と呼ばれていた。

アウグスト強王は、太陽王ルイ14世を模範として、ザクセンにも絶対主義王朝を実現しようと努めていた。 パリで調査旅行を行った自然科学者で数学者のエーレンフリート・ヴァルター・フォン・ツィルンハウス(Ehrenfried Walther von Tschirnhaus)がザクセンの宮廷へと招かれた。この頃、ザクセンでは銀の枯渇問題が喫緊の課題となっており、その為、ザクセンの天然資源の調査を行わせる目的で、ツィルンハウスを呼び寄せたのだった。ツィルンハウスは、ふたつめの課題として、陶磁器の研究にも取り組んだのだった。

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・ツィルンハウス (Source:geschichite.sachsen.de)

このツィルンハウスが、ベドガーに成功しそうにない錬金術の研究に見切りをつけ、磁器の開発を行うよう説得したのだった。そして、研究所の主要研究課題が磁器の開発に変更されてから、ふたりは数えきれない数の実験を行い、1706年に初めて「赤い磁器」の生産に成功する。しかし、本物の鮮やかな白はまだ生産できなかったのだった。1707年には、陶磁器でできた容器の生産に成功し、大きな前進を見たにもかかわらず、翌年の1708年、ツィルンハウスは白い陶磁器の完成を見ることなく、他界してしまう。この年の8月、ベトガーは巨額の資金がかけられたプロジェクトの責任者となっている。アウグスト強王が、陶磁器の開発にかけた費用は、一説にはおよそ23億円(22.3ミリオンユーロ)と試算されている。

ツィルンハウスの他界後も、ベドガーは研究を続けた。「白い黄金」生成に必要な成分が発見されるまで、ザクセン全土の土壌は粉砕され、ふるいにかけられ、粘土化された。

粘土でつくった器をそのまま焼いたものは「素焼き」と呼ばれ、表面が粗く、材質の異なる粘土を選ぶ以外には色を選ぶことが出来ない上、水を吸収しやすく用途が限定される。素焼きした陶器の表面に釉薬を釉掛け(くすりがけ)して焼くと、表面をガラス質が覆い、小孔をふさぐために耐水性が増す。また、ガラス質特有の光沢を得ることができ、様々な色や模様も得られる。これは、釉薬の中の長石が焼成時に溶け出してガラス質を形成し、金属成分が熱による化学変化を起こして色を付けるためである。

つまり、長石が高温焼成過程で結晶化し、磁器に透明に近い白色を与えるのだ。それには、安定して1300度を保つことのできる窯、適切な色などが必要であった。1710年、アウグスト強王は、ヨーロッパで初の陶磁器工場をマイセンに設立。1713年にライプツィヒのイースターフェアで、初めて白い磁器が販売されるまで、この製造過程はベトガーによって開発されたと思われる。

しかし、この頃、ベドガーは深刻な病気にかかっていた。 彼はあまりにも長い間、研究室で有毒ガスを吸い込んでしまっていたのだ。ベドガーはまだマイセンで磁器工場の担当をしていたが、1719年、37歳の若さで亡くなっている。せっかく得た名声も短期間しか享受することができなかった。

この頃、マイセン磁器は、当時ポーランド国王であったアウグスト強王のモノグラムが商標として使用していた。 1722年からザクセンの紋章、「交差された剣」が使用されている。

マイセンの代名詞「交差された剣」(Source:porzellan-stiftung.de)

ドレスデンの宮廷で必要とされる装飾食器だけでなく、18世紀からは、室内装飾用の置物として作られた磁器製の人形などが作られるようになった。有名な作家は、ヨハン・ゴットリープ・キルヒナー(Johann Gottlieb Kirchner)であり、巨大な動物のフィギュアの製作で知られている。キルヒナーの同僚であり、後継者でもあるヨハン・ヨアキㇺ・ケンドラー(Johann Joachim Kändler)は、マイセンにおける人形造形をさらに発展させた。ケンドラーに続く、カミーロ・マルコーニ(Camillo Marcolini)のもとでも、マイセン磁器の繁栄が続いた。

ヨハン・ゴットリープ・キルヒナー作、メトロポリタン博物館蔵(Source:de.wikipedia.org)

19世紀には、度重なる戦争、そして貴族階級の没落により、磁器製作にまわる投資が激減した。また生産施設も老朽化し、時代遅れのものとなっており、改築が待たれていた。19世紀半ばになり、新工場が建設されている。ドイツそして外国の王室も、バロックとロココの伝統的なマイセンの装飾用・食器用の磁器を再び注文するようになり、それに影響されるように上流階級もマイセン磁器を買い求めるようになった。そしてこの頃、マイセン磁器の有名な玉ねぎ柄のデザインも、ベストセラーとしてその地位を確立している。

1863年以降は、作業プロセスを最適化するため、生産施設はアルブレヒト城からトリ―ビッシュタール(Triebischtal)に新しく建設された建物に移転されており、生産は今日でもここで行われている。1912年から1916年にかけて、ショールームも備えた磁器博物館が建設されており、1918年に 同社は国営管理となっている。第二次世界大戦中も生産は継続され、戦後の東ドイツ時代には、外貨獲得金額において、同社は国内8位につけていた。統一ドイツ統一後は、国営マイセン磁器製造会社(Staatliche Porzellan-Manufaktur Meissen GmbH)が設立され、今日もマイセン磁器の製造・販売を続けている。

マイセン磁器の発明者となったベドガーだが、アウグスト強王の保護下に置かれてからは、ほぼ投獄されたような生活であった。発明に成功してからも、その巨大すぎる功績を十分に享受することなく、この世を去っている。これにより、磁器はアジアの独占市場ではなくなり、マイセン磁器は世界中で名声を博するのであった。1979年、マイセンは有田焼で有名な佐賀県有田町と姉妹都市提携を結び、2019年、マイセン―有田間の交流は40周年を迎えている。

参考:

sueddeutsche.de, “Wie ein Apothekergeselle das Meißner Porzellan erfand”, Josef Schnelle, 19.02.2017, https://www.sueddeutsche.de/wissen/johann-friedrich-boettger-wie-ein-apothekergeselle-das-meissner-porzellan-erfand-1.3254156

mer.de, “Meissener Porzellan: Zwischen Devisen und Tradition”, 23.01.2021, https://www.mdr.de/zeitreise/stoebern/damals/geschichte-porzellan-manufaktur-meissen-ddr-100.html

sachsen-erkunden.de, “Die Geschichte des Porzellans”, https://www.sachsen-erkunden.de/porzellan-museum-meissen/

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