町を守った鍛冶屋

アーヘン

アーヘンのヤコブ通り(Jakobstraße)とクラッパー小道(Klappergasse)が交差するところには、キント・イェズ礼拝堂(Kind-Jesu-Chapel)がある。その礼拝堂の前には、一人の男の銅像が建てられている。これは、ヴェアハフタ―・シュミート(Wehrhafter Schmied)という伝説の鍛冶屋の像だ。鍛冶屋は革のエプロンを身に着けた作業着姿で、右手にはハンマーを持っており、身体もかなり大きく作られていることから、この鍛冶屋が英雄的に誇張されて描かれていることがわかる。伝説によると、この鍛冶屋は、その昔、この場所に建てられていた修道院の前で、ヴィルヘルム4世伯爵(Graf Wilhelm IV.)を殺害したと言われている。

1278年の3月16日から17日の夜、ウィルヘルム・フォン・ユリッヒ伯爵(Wilhelm von Jülich)は日が沈んでから、3人の息子と469人の武装した騎士を連れてアーヘンの街に入った。目的はアーヘンを占拠することだった。(一説には、ユーリッヒ伯爵がハプスブルクのルドルフ王とボヘミアのオタカルとの戦争のためにアーヘンで帝国税を徴収しようとした。)彼はアーヘン市内に内通者がおり、彼ら公爵一行のために東へと通じるケルン門(Kölntor)を開いた。

伯爵が武装した騎士と一緒に市場に到着したとき、彼らは「Iulia nostra Domina!」(ユーリッヒこそ我々の主人だ!)と雄たけびをあげた。期待された援軍は来なかった。代わりに、警鐘が鳴り響き、アーヘン市民に武器をとるように呼びかけた。ひづめの音と馬の鼻息、武器と鎧のチャリンという音が通りに響き渡り、数分で戦闘はその激しさを増した。武装した市民は侵入者との戦いに身を投じ、女子供も窓からユーリッヒに石を投げつけた。多くの騎士と多くの市民が命を落としたのだった。

ウィルヘルム伯爵は自分の状況が絶望的だと悟り、ヤコブ門(Jakobstor)の方向に逃亡した。伯爵が白い修道院(Weißfrauenkloster)に到着したとき、鍛冶屋が彼の行方を遮った。まず最初に、彼は鉄の棒で伯爵を殺し、次に息子たちを殺した。伯爵の他の仲間もアーヘン市民からの攻撃を生き延びることはできなかった。

鍛冶屋の存在は、伝説の範疇をでないが、ヴィルヘルム4世が、暴動の発生により、この場所で殺害されたことは事実のようで、事件後の詳細が伝わっている。

1280年9月20日、シェーナウ城(Schloss Schönau)において、アーヘン市とヴィルヘルムの未亡人リヒャルダ(Richarda)との間で締結された償還契約では、市が高額の損害賠償を支払うことが決定された。契約締結後、ヴィルヘルムの遺体はアーヘンの修道院からニデッゲン(Nideggen)へと移され、ニデッゲン城下の聖ヨハネスバプテスト教会(St. Johannes Baptist)に埋葬された。

2019年8月、この教会の地下を調査中に、およそ3メートル四方の、石棺二つが入るほどのスペースが見つかり、ヴィルヘルム4世とその妻リヒャルダがそこに埋葬される可能性が指摘されている。

伯爵の死の償いとして、アーヘン市は賠償金の支払いと共に、贖罪の祭壇を記念碑として設置することを要求された。記念碑は完成したが、1666年に崩壊し、以降、アーヘン市は記念碑を再び修理する義務を感じなかった。記念碑は、1800年頃に取り除かれたという。アーヘン市民は、600年以上の間、祭壇を大切にしてきたが、贖罪の記念碑を再建するのではなく、今度はアーヘンの町を守った男に敬意を表して噴水が作ることを決定した。鍛冶屋の像が取り付けられた噴水は1909年7月27日に制作され、二つの世界大戦を生き延びた後、1962年12月21日、銅像だけが現在の場所へと移されている。像は今もアーヘン市民の自由と勇気を表しているという。

参考:

schmiedeaachen.de “Die Legende vom Wehrhaften Schmied von Aachen”, https://www.schmiedeaachen.de/der-wehrhafte-schmied-von-aachen

コメント

タイトルとURLをコピーしました