破壊された農民の国

ブレーメン

ブレーメンの北西、アルテネシュ(Altenesch)には、とある戦争の記念碑が建てられている。これは、12世紀に起こった《シュテディンガーの戦い(Stedingerkrieg)》の中の、局地戦として知られる、《アルテネシュの戦い(Schlacht bei Altenesch)》の記念碑である。話は12世紀、まだ十字軍華やかなりし頃に遡る。十字軍は途中から、聖地奪回という当初の目的から逸脱したものがいくつか存在したが、このシュテディンガーの戦いは、まさにその一つだった。

アルテネシュにある記念碑(Source:wikipedia.de)

1187年、スルタン、サラディン(Saladin)がエルサレムを征服した後、十字軍の考えはその焦点を失った。フランスのフィリップ2世とイングランドのリチャード獅子心王は第3回十字軍のために集まったものの、聖地回復が失敗した後は、互いに激しく争うだけであった。第4回十字軍に至っては、聖地回復という目的さえ失われ、経済的なモチベーションに支配された行軍であったが、1204年にコンスタンティノープルの征服で、カトリック教会の興奮は最高潮に達した。教皇インノケンティウス3世は、カタリ派の宗教コミュニティをフランス南西部の異端集団であると判断し、1209年から1229年までの間、十字軍による集団の壊滅を目指した。いわゆるアルビジョワ十字軍である。

ドイツの農民も、十字軍が教会に強力な暴力装置を与えたことを痛々しく経験させられることになるのだった。インノケンティウス3世の甥で後継者のグレゴリウス9世は、十字軍の呼びかけを行い、数千人の騎士を動員し、1234年5月27日にヴェーザー川下流のいわゆるシュテディンガー農民共和国(Stedinger Bauernrepublik)を壊滅させたのだった。この戦闘による最大の勝者はブレーメン大司教であった。

湿地帯と川から近すぎる立地のため、この地域は12世紀の初めまで耕作されることはなかった。フリードリッヒ・フォン・ブレーメン大司教(Erzbischof Friedrich von Bremen)は、堤防の建設と水の規制について詳しい専門家をブラバントから召集した。ブラバントからの入植者たちは、大司教に仕える限り、自由農民としていられることが契約上保証されていた。彼らは強制労働さえも免除されていたが、その代わり、教会に十分の一税を納める必要があった。

「オランダ」からの入植者に対する、この特権的な「オランダ法(Hollerrecht)」を持ったこの地域は、バルバロッサことフリードリヒ1世が帝国保護下に置き、教会司教もこれを承認してきた。この特権をもって、「農民共和国」を設立することができたのだった。しかし、1190年の第3回十字軍におけるバルバロッサの死後、状況は大きく変化した。

シュタウフェン家とヴェルフ家が帝国の王冠を巡って戦っている間、近隣の貴族たちは、これをシュテディンガーから土地と労働力を自分たちのものにするチャンスと捉え、女性や子供に対する襲撃さえもためらわなかった。

「自分たちに降りかかってくる災難を目の当たりにしたとき、彼らは決定を下した。」と、修道院の年代記は記している。貴族たちは町に侵入し、住民を虐待して殺し、家屋を焼失させた。 ブレーメン大司教による軍事行動の後、彼らは税金を上げ、支払いを強要したのだった。近隣の貴族たちとのゲリラ戦は続き、武装した農民たちはブレーメン司教区との戦いを開始した。 シュテディンガーはブレーメンとの結びつきを永久に断ち切ることに決め、税金の支払いを停止したのだった。

農民たちにわからせるために、ゲアハルト・フォン・ブレーメン(Gerhard von Bremen)は、1229年に、兄のヘルマン・ツァ・リッペ(Hermann zur Lippe)を軍と共に川の沼地へと送った。馬に騎乗した騎士たちが泥に沈むのを防ぐために、冬が始まるのを待って霜が地面を固めるのを待った。皮肉なことに、攻撃はクリスマスに開始された。ハスベルゲン(Hasbergen)近くで戦いが勃発。ヘルマンは殺害され、司教の軍隊は シュテディンガーの前に敗北した。

シュテディンガーは自らの手に負えないと判断したゲルハルト大司教は「十字軍」の結成を決断した。大司教によって召集された教会会議では、農民が悪魔と接触してたという「異端判決」を出した。この判決をもって、ゲルハルトはローマ教皇に支援を求めた。

教皇グレゴリウス9世は、まさにその求めにふさわしい人物だった。カタリ派に対する十字軍の終結後、彼は異端者への迫害をさらに強化することに着手した。教皇の異端審問官が調査、告発、拷問を引き継ぎ、異端審問の業務は大幅に簡略化された。教皇は手紙の中で、「邪悪な者」に対する十字軍を呼びかけ、その見返りに「罪の赦し」を約束したのだった。

「天国の報酬」と地上での戦利品獲得の見通しは、ブレーメンの商人たちを十字軍へと支援させた。1232年の最初の攻撃は、シュテディンガーの抵抗によって失敗したが、「シュテディンガーは女性も老人も区別せず、ただただ水のように血を流し、僧侶を手あたり次第にバラバラに引き裂いた。」という大司教のプロパガンダに乗せられて、教皇グレゴリウス7世は、1233年に自身の主張を継続した。

今度は、数千人の騎士が教会の呼びかけに応えた。 1234年5月27日のアルテネシュ(Altenesch)近郊での決戦は、教会の年代記者が「アルマゲドン」と描写するほどの激しい戦闘が行われている。一部のシュテディンガーはフリースへの逃亡に成功したが、残りの生存者は略奪され、権利と自由を奪われた。

シュテディンガー戦争は、1525年にドイツ農民戦争が起こるずっと前に、農民たちが自身の権利のために戦争に参加する準備ができていたことの証左となった。

参考:

welt.de, “Von Lanzen durchbohrt, von Schwertern getroffen, von Pferden zertreten”, 04.11.2021, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/article208319235/Kreuzzuge-Von-Lanzen-durchbohrt-von-Schwertern-getroffen-von-Pferden-zertreten.html

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