宗教改革者たちの記念碑

ヴォルムス

ヴォルムス中央駅を出て、ヴィルヘルム・ロイシュナー通り(Wilhelm-Leuschner Str.)をまっすぐに歩くと、まず最初に見えてくるのが、ルターの記念碑だ。ルターだけでなく、ヨーロッパの宗教改革に影響を与えた錚々たるメンバーの銅像が建てられている。銅像はドイツ後期古典主義を代表する彫刻家、エルンスト・リーチェル(Ernst Rietschel)によるものだ。

     ルター記念碑   

記念碑の中央には、説教の時のスカートを身にまとい、聖書を手に持ったルターの像がある。ルター像の下には、宗教改革の先駆者、ウィクリフとヤン・フス、ペトルス・ヴァルドゥス、サボナローラ像が並んでいる。

エルンスト・リーチェルは、ゴットフリートゼンパーら多くの建築家と協力して、ドレスデンを中心に建築装飾を担当したことでも知られる。彼の手による作品のなかで、我々にもっとも馴染みの深いものは、ワイマールにあるゲーテとシラーの銅像だろう。ベルリン芸術アカデミー、ウィーン芸術アカデミーの会員をはじめ、ストックホルム・アカデミー名誉会員など数々の栄誉を受けている。

エルンスト・リーチェルの他の作品

ルター記念碑にある他の銅像

ヤン・フス (Jan Hus)

チェコ出身の宗教思想家、宗教改革者。プラハ大学で神学を学び、同大学の学長になった。ジョン・ウィクリフの思想に影響を受け、宗教運動に着手。ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。

カトリック教会はフスを破門に処し、1414年、皇帝ジギスムントが開いたコンスタンツ公会議によって有罪とした。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。フスの思想は、ドイツ人支配で迫害を受けていたチェコ人の民族運動と結びつき、ベーメンで《フス戦争》(1419年)と呼ばれる農民戦争に発展した。

ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)

サヴォナローラは、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士でフィレンツェで神権政治を行った。説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。

メディチ家がフィレンツェを追放された後、サヴォナローラは共和国の政治顧問となって政治への影響力を強めたが、サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、サヴォナローラも拘束される。彼は激しい拷問を受けた後、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。

ピーター・ワルドー (Peter Waldo)

フランスの宗教運動家。ワルドー派の始祖。
教会の管財人でこの立場を利用した高利貸しだったと考えられている。高利貸しで不正に得た利子を返して全財産を売り払い、貧者にパン、スープを施し、聖職者に依頼してラテン語で書かれた聖書を俗語訳にして学んだ。リヨンで説教をはじめやがて多くの市民が共鳴し清貧と説教を実践する人々が現れた。当時、一介の一般信徒が自発的に説教活動を始めたことはほとんどなく、ワルドーは教会から公式な説教の許可を得ようとしたが、リヨンの大司教に拒否された。

教皇アレクサンドル3世からは温かく迎え入れられたが、1181年に理解者だったアレクサンドル3世とリヨン大司教リシャールが相次いで亡くなると、ワルドーは1182年に新任のリヨン大司教にリヨンから追放された。1184年には教皇ルキウス3世から異端宣告を受けたが、その決定には従わず、活動は北イタリア、フランスにまで広がった。

ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe)

イングランドのヨークシャーに生まれた、宗教改革の先駆者とされる人物である。オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説は誤りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。

イングランド国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、彼がかつて司祭をしていたラタワースに戻り、聖書を英語に翻訳した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。

フィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon

ルターの宗教改革において、ルターの思想の体系化に尽力。プロテスタント正統の基礎を築いたという面でカルヴァンと並び称される。1518年、ルターに共鳴して宗教改革に参加。非体系的・直感的なルターに対し、メランヒトンは体系的・知性的であり、ルターの思想を体系化していく役割を担った。1530年に『アウクスブルク信仰告白』を執筆した。

また人文主義に基づく中等学校、古典的なコレギウムを開き、ルター派の中等教育・高等教育に貢献した。

ヨハネス・ロイヒリン(Johannes Reuchlin)

親族にフィリップ・メランヒトン(1497年 – 1560年)がいる。後年、ロイヒリンは43歳年下だった若き日のメランヒトンにユマニスムの教えを手ほどき、ハイデルベルク大学に通わせ、さらに姓をギリシア語名に改名させたのもロイヒリンだった。このころ1517年にヴィッテンベルクでマルティン・ルターが立ち上がり宗教改革が始まったが、ロイヒリンはルターの宗教改革を痛烈に罵倒、反駁の論陣を張った。

ロイヒリンは聖書主義者であり、大方ロイヒリンはプロテスタンティズムに傾いていると考えられていたが、しかし、けっしてローマ・カトリック教会を離れたわけではなかった。また、ロイヒリンは、宗教改革で活躍したフィリップ・メランヒトンの大伯父でもあったがルターを支持しなかった。

ヘッセン方伯 フィリップ1世(Philipp I., der Großmütige)

フィリップ寛大公という名前でも知られている。宗教改革ではプロテスタントを支持し、宗教改革の後援者・推進役となり、自身の領内をプロテスタントで統一している。同じくプロテスタントのザクセン選帝侯ヨハンらとも共闘している。
1527年にドイツでは最初のプロテスタント大学となるマールブルク大学を設立。同大学は1934年以降、《フィリップ大学マールブルク》と呼ばれている。

マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリらプロテスタントの指導者をマールブルク宗教会議に召集するなど、プロテスタントの糾合を目指し、カトリックの神聖ローマ皇帝カール5世に対抗した。カール5世とは《シュマルカルデン戦争》に至るが、《ミュールベルクの戦い》で皇帝軍に敗れて捕虜となり、オランダで5年間の幽囚生活を送っている。解放後はプロテスタントの統一に尽力した。

ザクセン選帝侯フリードリッヒ3世(Friedrich III、Kurfürst von Sachsen)

ヴェッティン家のザクセン選帝侯。賢明公、賢公と称される。1502年ヴィッテンベルク大学を創設した。マルティン・ルターはこの大学で設立間もない時期から教鞭を執っており、ヴィッテンベルク大学内の聖堂の扉に《95ヶ条の論題》を掲示した。またルターの協力者である人文主義者フィリップ・メランヒトンも1518年に同大学のギリシア語教授として招かれている。

1521年にヴォルムス帝国議会でルターが自説の撤回を拒否し、カール5世からドイツ国内で法律の保護対象外(事実上の国外追放処分)に置かれると、皇帝の決定に反して「ルターを誘拐する」芝居を打ち、居城であるヴァルトブルク城に匿った。この時期にルターは新約聖書のドイツ語訳を行っている。

カール5世は、自身の祖父であるマキシミリアンに仕え、自らの皇帝即位にも尽力したフリードリッヒ3世に別段の処置をとらなかった。

宗教改革の立役者たち以外にも、宗教改革に所縁の深いドイツの町の偶像が立てられている。

町の偶像

          

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