ヴォルムス帝国議会 | マルティン・ルターの追放

ヴォルムス

【ドイツの歴史】神聖ローマ皇帝カール5世が下した決断

ヴォルムス帝国議会(Reichstag zu Worms)は、実は数回開催されている。一番有名なものは、ルターが喚問された1521年のものだが、それに先立つ1495年には、神聖ローマ皇帝マキシミリアン1世が開催したヴォルムス国会というのがある。

1495年に召集したヴォルムス帝国議会では、時の皇帝マキシミリアン1世が《永久ラント平和令》の発布を行った。《平和令》とは、諸侯間のフェーデ(私闘)を禁じたもをいう。中世ヨーロッパでは、紛争解決の手段として、武力を用いた私闘が頻繁に行われていた。帝国や国家内で、中央集権化が十分に進んでいない場合、違法行為に対して、裁判による紛争調停機能に期待できないため、各々が自らの武力によって生命、土地、財産や名誉などを守る手段として、私闘が行われていたのだった。法に依る解決を目指さず、武力に訴える権利は、当時は合法的に認められていた。ゲルマン古来から伝わる《血の復讐》から発展したものであるという。ところがこういった手段が常習化すると、武力の強いほうにつねに正義の秤が傾くようになり、地域の治安も悪化する。その為、10世紀以降、教会を中心に《神の平和》という概念が生まれ、フェーデの制限・禁止に向かっていくのであった。

同様の私闘禁止令は、マキシミリアン一世以前も期間限定のものが発行されていた。有名なものとしては、フリードリッヒ一世による1152年の平和令や、フリードリッヒ二世による1235年のマインツ平和令などがある。

神聖ローマ皇帝マキシミリアン一世は、ミラノ公国のスフォルツァ家公女ビアンカと再婚したころから、ますますイタリア政策に注力するようになる。この頃、フランス王シャルル8世との争いも激化していたことから、ドイツを空けることが多かった。ドイツ諸侯は、マキシミリアン一世の不在により、ドイツに死闘が頻発したり、野盗が増えたりといった治安の悪化に対しての対処を皇帝に求めたのだった。そういう事情があって、マキシミリアン一世はヴォルムスにおける国会で、紛争処理として帝国最高法院(Reichskammergericht)を設置し、帝国内における一切のフェーデを恒久的に禁じたのだった。この平和令によって、私闘が根絶されることはなかったが、一応の解決策として評価をされている。

その《永久ラント平和令》が発布された帝国議会から26年後、1521年のヴォルムス帝国議会では、マキシミリアン一世の孫にあたるカール5世が、マルティン・ルターを異端として帝国から追放処分に処したことで知られる。

マルティン・ルターは、1517年の『95ヶ条の論題』の提示、1519年のライプツィヒ論争での教皇や公会議の権威否定の発言により、教皇レオ10世と決別した。1521年ルター支持の諸侯や民衆の声に押されて、神聖ローマ皇帝カール5世は帝国議会を召集し、ルターを召喚した。

カール5世は1520年10月23日、アーヘン大聖堂で戴冠されたが、それから1ヵ月後の1520年11月にはヴォルムスにいた。カール5世の軍勢をはじめ、各国の王や領主、大使そしてもちろん聖職者も出席の為にヴォルムスに滞在した。一説には80人もの諸侯、130人以上の伯爵が参加したといい、そのそれぞれが騎士や従僕を連れていたのだ。当時、人口7,000人程度の小さな町に1万人以上の人が押し寄せたのだ。否応にも、ヴォルムス市民の間で帝国議会に対する関心が高まる。この当時のヴォルムス市民の間ではルター派を支持する人が多かったという。大勢の訪問者を楽しませるため、売春宿があちこちに存在したという。また、騎士の間では騎馬試合が連日行われた為、一日に3名も4名も命を落としたという話が伝わっている。

この帝国議会では、神聖ローマ皇帝カール5世とマルティン・ルターが直接議論を戦わせた。しかし、両者の主張は物別れに終わり、ルターは《帝国アハト刑》を受け、帝国を追放されることとなる。帝国におけるルターの権利は全てはく奪され、ルターの身の安全を保障するものは一切なくなったのだ。

しかし、ルター自身は、帝国議会の決定が下る前にすでにヴォルムスを発っていた。その途上、消息を絶ったように見せかけて、賢公フリードリヒ3世 がヴァルトブルク城にルターを匿ったのだった。その期間、ルターは思索と著述に専念できる時間ができ、新約聖書をドイツ語に翻訳したのだ。ルターの手によるドイツ語聖書は、その後、宗教的な影響の枠を超えて、近代ドイツ語の成立においても重要な役割を果たすことになる。

さて、ヴォルムス帝国議会では、ルターとの議論の他にも、神聖ローマ帝国に関する話し合いも持たれた。カール5世が帝国不在の折には、弟であるフェルディナント1世が、皇帝を代表するという取り決めが行われたのだ。当時、神聖ローマ帝国はスペイン・ポルトガルもその版図にあり、皇帝不在の状況が容易に想像できた為、各諸侯の要請により、取り決めが行われたのだった。

またこの時、カールとフェルディナントの間で広大な支配地域の統治に関しても取り決めが行われている。カール5世はスペイン王カルロス1世としてスペインを治め、フェルディナント1世はオーストリアを治めるというものである。つまり、神聖ローマ帝国皇帝位を事実上世襲していたハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれた瞬間であった。これはヴォルムス条約として1521年に締結されている。この条約により、カール5世の死後、神聖ローマ帝国の帝冠はオーストリアのハプスブルク家が継承することとなり、1806年の帝国崩壊まで続くこととなったのだ。

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