美しすぎた肖像画 ‐ アン・オブ・クレーブス

クレーフェ

ヘンリー8世の4番目の王妃、アン・オブ・クレーブス

【アンナ・フォン・クレーフェ】

16世紀、イングランド。時の為政者はヘンリー8世。生涯に8人もの王妃を娶り、うち2名を処刑にした悪名高い君主である。そのヘンリー8世の4番目の王妃は、ここデュッセルドルフの出身だ。名前をアンナ・フォン・クレーフェ(Anna von Kleve)という。

File:Anne of Cleves, by Hans Holbein the Younger.jpg - Wikimedia Commons

デュッセルドルフのあるノルトライン=ヴェストファーレン州に存在していた公爵領であるユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘として生まれた。ゾーリンゲン近郊にあるシュロス・ブルク(Schloss Burg )で育てられた。

3番目の妃ジェーン・シーモアと死別した後のヘンリー8世は、男子後継者を残すべく、すぐに次の結婚相手の選定にはいった。最初にデンマークのクリスティーヌ・ド・ダヌマルク(Christine de Danemark)に求婚したが、すでにヘンリーの悪評を耳にしていたクリスティーヌは「私に二つの頭があったら、王と結婚いたします。」とその誘いを丁重に断った。

クリスティーヌ・ド・ダヌマルク Source: https://de.wikipedia.org/wiki/Christina_von_D%C3%A4nemark

そんな折、側近のトマス・クロムウェルが持ち込んだ花嫁候補というのが、ドイツの有力貴族であるクレーフェ家の娘、アンナであったというわけである。もちろん、政略結婚であり、ハプスブルク家のカール5世とフランスのフランソワ1世に対抗するために、ユーリッヒクレーヴェベルグ公国間の同盟関係を結ぶことを意図したのだった。クロムウェルはアウグスブルク出身の宮廷画家であるハンス・ホルバインに依頼してアンナの肖像画を描かせていた。

アンナの肖像画を見たヘンリー8世は、その美しさに一目で惚れ込み、結婚を決意したという。結婚は1539年に正式に決定した。アンナをドイツから安全にイングランドに護衛するため、デュッセルドルフから263人の人員と228頭の馬を連れて花嫁をカレーに届けたという。

ドーバーに到着すると、アンナはカンタベリー経由でロチェスターに行き、そこでヘンリー8世と初めて対面した。その時、ヘンリー8世はあまりに肖像画と異なる実際のアンナの顔を見て激怒したと伝えられる。ヘンリー8世は結婚をためらい、結婚式も2日間延期したが、この後に及んで式を中止にすることもできず、1540年、アンナと結婚している。ヨーロッパ大陸でもっとも重要な同盟国を失うリスクを冒せないという政治的な判断もあったのだろう。

結婚から半年後、アンナがヘンリー8世との結婚前に結んでいたロレーヌ公フランソワ1世との婚約が無効になっていなかったという理由で、ヘンリー8世はアンナと離婚している。(余談だが、アンナと婚約していたロレーヌ公フランソワ1世は、ヘンリー8世がアンナとの結婚前に求婚したデンマークのクリスティーヌ妃と結婚している。)

アンナは当時のドイツでは当たり前であった非常に保守的な教育を受けて育ったため、音楽、文学や外国語の教養を身に着ける機会に恵まれなかったのだ。対するヘンリー8世はあらゆる教養を身に着けた当代きっての文化人だった。教養面でもお互いを隔てる溝は深かったのだった。

アンナとの結婚話を持ち込んだクロムウェルはこの責任を取らされて後にロンドン塔で斬首刑に処される。ホルバインは長年ヘンリー8世のお気に入りの画家であったが、宮廷画家の身分を剥奪されて追放されている。ホルバインが描いたアンナの肖像画は現在ルーブル美術館に展示されている。

Hans Holbein der Jüngere hat wahrscheinlich 1532 dieses Porträt von Thomas Cromwell angefertigt.
Source:https://www.augsburger-allgemeine.de/kultur/Thomas-Cromwell-Erst-ganz-oben-dann-hingerichtet-id57175121.html

処刑されたトマス・クロムウェル

ふたりが離婚の手続きに入ったとき、ヘンリー8世は、アンナの侍女で後に5番目の王妃となるキャサリン・ハワードとすでに恋仲にあったという。議会が離婚を正式に認めた時、アンナの頭には処刑された2番目の王妃、アン・ブリーンの運命が頭をよぎっただろう。アンナは自分の置かれた状況をすぐに理解した。そして黙って退位書に署名し、ヘンリー8世の願いを叶えてやるのだった。アンナとの離婚がスムーズに進んだことにヘンリー8世も満足し、またドイツの有力貴族を悪くあしらえないこともあって、アンナに《王の妹》(the King’s Beloved Sister)という称号とともに、所領と年金を与え、ロンドンで暮らすことを許している。

離婚後のアンナにはデュッセルドルフへ帰る道もあったが、イギリスに留まった。彼女はヒーバー城(Hever Cast­le)に引退し、そこでひっそりと暮らしながら、英語の勉強を続けたという。アンナは、イギリスやイタリアのファッションに興味を持ち、様々なドレスを着ることに喜びを感じるようになった。そしてその自然な振る舞いと親しみ易さはイギリスでも有名になったという。1557年7月28日、アンナはにチェルシーで亡くなり、ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬された。死因は癌であったと伝えられる。

Source:https://www.hevercastle.co.uk/visit/

《アンナが離婚後に移り住んだヒーバー城》 ヘンリー8世の二人目の妻であり、エリザベス1世の母であるアン・ブーリンが幼年期を過ごした家でもある。チューダー朝の肖像画コレクションでも有名。

アンナはヘンリー8世を虜にする美貌を持ち合わせてはいなかった。イギリス王室に嫁ぐに不可欠だった教養も持ち合わせていなかったかもしれない。しかし、自分の置かれた状況を冷静に分析する政治能力に優れた人物だったのではないか。ヘンリー8世がアンナの次に結婚したキャサリン・ハワードは処刑の憂き目をみている。アンナは、ヘンリー8世の妃としてはもっとも長生きした人物であり、ヘンリー8世の王妃のなかで唯一ウエストミンスター寺院に埋葬された人物である。処刑の憂き目をみた他の王妃たちについて考える時、アンナの人生は幸せであったのではないかという評価にもうなずける。

Source:https://www.westminster-abbey.org/abbey-commemorations/royals/anne-of-cleves-4th-wife-of-henry-viii

ウェストミンスター寺院にあるアンナの記念碑

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