インマーマン通りの名前の由来

デュッセルドルフ

デュッセルドルフの目抜き通り、インマーマン通り。日系企業が多数活動するデュッセルドルフには、駐在員や家族を含めて5,000人もの日本人が暮らしている。インマーマン通り周辺はリトル・トーキョーとも呼ばれ、日本食レストランが軒を連ねている。2021年、このインマーマン通りにも通りの名前が日本語で表記されたネームプレートが取り付けられるようになった。デュッセルドルフで生活する者にとっては、頻繁に耳にするこのインマーマン通りだが、その名前の由来はカール・インマーマンという作家である。

カール・インマーマンは、1796年、マクデブルクでプロイセン高官の子息として生まれた。ナポレオン戦争の最中にハレで学び、ドイツ・ナショナリズムに目覚めていった。1815年のワーテルローの戦いなどに従軍し、パリ占領にも加わっている。ウィーン体制下ではミュンスター、マクデブルクで官職についたのち、1827年よりデュッセルドルフで司法官をつとめ、そのかたわらで作家活動を続けていた。

デュッセルドルフのホーフガルテン内に建てられた、クレメンス・ブッシャ―作のインマーマン像

1836年の作品『エピゴーネン』では、富裕市民であるヘルマンの生涯を扱いながら、当時のドイツにおける知識人・学生・特権階級などの姿を描き出している。1838年から1839年にかけて執筆した『ミュンヒハウゼン』でも、やはり当時の社会における各集団を辛辣なユーモアを通じて描写している。この頃、詩人のフェルディナント・フライリヒラート()とも知己を得ている。

カール・インマーマンは、1833年からデュッセルドルフで音楽監督に就任していたフェリックス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)とも仕事をしている。メンデルスゾーンはイギリスとデュッセルドルフで仕事を行った。デュッセルドルフでは1833年に音楽監督に就任しており、これは彼が音楽家として給料を得た初めての職だった。

カール・インマーマンは、メンデルスゾーンとともに、デュッセルドルフの劇場の水準向上に努めた。また、1833年の暮れにはインマーマン演出によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でメンデルスゾーンが初めてオペラの指揮台に立った。しかし、インマーマンとの劇場管理の仕事はメンデルスゾーンにとってはあまりいい印象とならなかったようだ。おそらく、それが原因となって、翌年、メンデルスゾーンはデュッセルドルフを去り、新たな職を得たライプツィヒへと旅たったのだった。

その後、インマーマンはデュッセルドルフで音楽監督に就任し、初めて音楽家として給料を稼いでいる。1833年にはライン音楽祭も指揮した。 1840年、カール・インマーマンはデュッセルドルフで病死し、ライン川近くにあるゴルツハイム墓地に埋葬された。デュッセルドルフ市ではこの町に所縁の深い芸術家の名前を冠した賞が設けられており、デュッセルドル生まれの画家、ピーター・フォン・コーネリアス(Peter von Cornelius)に因んだコーネリアス賞(絵画および彫刻)やロバート・シューマン賞(クラシック)などの芸術賞がある。カール・インマーマンに因んだ「インマーマン文学賞」も1967年まではあったが、1972年に新設された「ハインリッヒ・ハイネ賞」にとって代わられた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました