【ドイツ観光】インマーマン通りの名前の由来 | カール・インマーマン

デュッセルドルフ

日本人街が広がるデュッセルドルフのメインストリート、インマーマン通りの名前の由来とは?

デュッセルドルフの目抜き通り、インマーマン通り(Immermannstraße)。約600もの日系企業が多数活動するデュッセルドルフには、駐在員や家族を含めて8,400人もの日本人が暮らしており、日本人学校、4 つの日本人幼稚園、日本総領事館、日本商工会議所、日本人クラブが存在している。デュッセルドルフはドイツ最大の日本人コミュニティを誇り、インマーマン通り周辺はリトル・トーキョーとも呼ばれ、日本食レストランが軒を連ねている。2021年12月9日、このインマーマン通りとカール通り(Karlstraße)が交差する場所に、通りの名前が日本語で表記されたネームプレートが取り付けられるようになった。もともとこのアイデアはデュッセルドルフ市民からの提案であったという。このアイデアはデュッセルドルフの市議会で議論され、インマーマン通りのマーケティングという意味合いと、「リトル東京」と呼ばれるインマーマン周辺地区の観光客の雰囲気を盛り上げる目的でこの提案が採用された。デュッセルドルフのゲルスハイム地区(Gerresheim)、特にハイエ通り(Heyestraße)の周りには、イタリア人のコミュニティーがあるが、これは1960年代にイタリアから労働者がやってきてここに定住したためだ。このイタリア人地区と同様に、ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都として相応しい国際性を際立たせたかった意図があったという。また、この年は、日本とドイツが国交を樹立して160周年を迎える年でもあった。

デュッセルドルフで生活する者にとっては、馴染みの深いこのインマーマン通りだが、その名前の由来はドイツ人劇作家に由来する。

デュッセルドルフとカール・インマーマン

カール・インマーマンは、1796年、マクデブルクでプロイセン高官の子息として生まれた。ナポレオン戦争の最中にハレで学び、ドイツ・ナショナリズムに目覚めていった。1815年のワーテルローの戦いなどに従軍し、パリ占領にも加わっている。ウィーン体制下ではミュンスター、マクデブルクで官職についたのち、1827年よりデュッセルドルフで司法官をつとめ、そのかたわらで作家活動を続けていた。

デュッセルドルフのホーフガルテン内に建てられた、クレメンス・ブッシャ―作のインマーマン像

1836年の作品『エピゴーネン』では、富裕市民であるヘルマンの生涯を扱いながら、当時のドイツにおける知識人・学生・特権階級などの姿を描き出している。1838年から1839年にかけて執筆した『ミュンヒハウゼン』でも、やはり当時の社会における各集団を辛辣なユーモアを通じて描写している。この頃、詩人のフェルディナント・フライリヒラート(Ferdinand Freiligrath)とも知己を得ている。

カール・インマーマンは、1833年からデュッセルドルフで音楽監督に就任していたフェリックス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy)とも仕事をしている。メンデルスゾーンはイギリスとデュッセルドルフで仕事を行った。デュッセルドルフでは1833年に音楽監督に就任しており、これは彼が音楽家として給料を得た初めての職だった。

カール・インマーマンは、メンデルスゾーンとともに、デュッセルドルフの劇場の水準向上に努めた。また、1833年の暮れにはインマーマン演出によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でメンデルスゾーンが初めてオペラの指揮台に立った。しかし、インマーマンとの劇場管理の仕事はメンデルスゾーンにとってはあまりいい印象とならなかったようだ。おそらく、それが原因となって、翌年、メンデルスゾーンはデュッセルドルフを去り、新たな職を得たライプツィヒへと旅たったのだった。

その後、インマーマンはデュッセルドルフで音楽監督に就任し、初めて音楽家として給料を稼いでいる。1833年にはライン音楽祭も指揮した。 1840年、カール・インマーマンはデュッセルドルフで病死し、ライン川近くにあるゴルツハイム墓地に埋葬された。デュッセルドルフ市ではこの町に所縁の深い芸術家の名前を冠した賞が設けられており、デュッセルドル生まれの画家、ピーター・フォン・コーネリアス(Peter von Cornelius)に因んだコーネリアス賞(絵画および彫刻)やロバート・シューマン賞(クラシック)などの芸術賞がある。カール・インマーマンに因んだ「インマーマン文学賞」も1967年まではあったが、1972年に新設された「ハインリッヒ・ハイネ賞」にとって代わられた。

インマーマン通りと日系企業の進出

さて、では劇作家カール・インマーマンの名前を冠した通りを持つデュッセルドルフ市には、なぜこれほど大きな日本人コミュニティーが誕生したのだろうか?これは第二次世界大戦が終わったころに遡る。第二次世界大戦の終結後、ドイツの破壊された都市の再建にとって、重工業がますますその重要さを増していった。これは同じく大戦からの復興を目指す日本も同じ状況であった。工業国のドイツ、なかでもルール工業地帯に近いデュッセルドルフは、それまでハンブルグとベルリンに主に集中していた日本人にとって興味深い場所となっていった。 1950 年代以降、大倉商会、三菱商事、東京銀行など、多くの日系企業がデュッセルドルフにやってきた。旧連邦首都ボンに近いことや、ベネルクス諸国やフランスへのアクセスが容易な好立地が、デュッセルドルフが事業拠点として選ばれる理由となった。

デュッセルドルフ市はこの好況に乗じて、積極的に日本企業の誘致を開始した。1963 年には早くも、インマーマン通りに日本センターを建設するという案が出され、1978 年に完成を迎えている。 1966 年、デュッセルドルフで活動する日系企業のうち 66 社がデュッセルドルフ日本商工会議所を設立。ドイツで営業する企業やドイツ進出を考える企業のサポートを始めた。同年、デュッセルドルフ市は《ヤーパンターク》と呼ばれるジャパン デーの開催をはじめ、これは 2002 年から数十万人の観光客を迎えて大規模に発展し、以来今日までデュッセルドルフの名物イベントとなっている。

こうしてデュッセルドルフの日本人コミュニティはゆっくりと、しかし着実に成長。1970 年代半ばにデュッセルドルフはハンブルグに取って代わり、ドイツにおいて日本人が一番多い町となった。デュッセルドルフ市は企業の誘致だけでなく、日本から派遣された駐在員の家族にとっても住みやすい安全な環境の提供に努め、日本企業が従業員をデュッセルドルフに派遣しやすい環境を整えたのだった。そして 1970 年代初頭に日本人学校が建設されたことが、さらなる日本人コミュニティー拡大の決定的な要因となった。そこに日本人クラブ、総領事館ができ、多くのレストランや日本の商品を扱うお店がオープンしだしたのである。日本企業連合がデュッセルドルフ中央駅前からインマーマン通りの再開発を行っていたことから、1979年には三越デパートがオープンしている。前年には同じくインマーマン通りにホテル・ニッコーがオープンしていたが、その中で三越は営業を行っていた。隣地の独日センターには、日本国総領事館、日本商工会議所等が入っており、日本企業の進出がもっとも華々しかった時代である。

インマーマン通りから消えていく日本人

日本商工会議所も1993年には728社の会員数を誇ったが、バブル経済崩壊後、1990年代後半から会員数が激減。インマーマン通りに出店していた三越デパートも2009年についに閉店を迎えた。その後、日本領事館は2016年にインマーマン通りを離れ、日本商工会議所もベルリナーアレーへと引っ越している。こうして日系企業が大挙してデュッセルドルフに押し寄せてきた時代は静かに終わったが、現在でもドイツで生活している日本人にとっては、デュッセルドルフとインマーマン通りは離れたふるさとを思い出させてくれる特別な場所なのである。

さて、インマーマン通りに設置された日本語の標識だが、これは日本だけへの特別扱いではない。デュッセルドルフ市は、このインマーマン通りを含め、外国籍の居住者の多い10地域にそれぞれの言語で表記された標識を建てようとしている。これはデュッセルドルフの国際性豊かな特徴と独自のセールス ポイントを強調することを目的としてのことだ。

日本語表記の標識が立てられたことは、何十年もの間、州都に多くのお金と仕事をもたらし、ドイツ人の日本文化に対する関心を高めたことへの感謝の現れでもある。毎年60万人以上が訪れるジャパンデーが示すとおり、ドイツ人の日本文化への関心・理解は特筆すべきものだが、しかし、デュッセルドルフに住む日本人とドイツ人が理想的な関係にあるかというと、一概にそうとも言い切れない点もある。日本人はドイツ社会に溶け込んでいないという見方もあるのだ。特に、多くの日本人は自主的にドイツへの居住を決定したというより、雇用主から一時的にドイツに派遣された人々で、数年後に母国に戻る「外国人居住者」なのだ。時には自分たちの住みよいコミュニティーを形作って、独自の世界に住んでいるという印象を持つ人もいることを忘れてはならない。

参考:

duesseldorf.de, “Japanische Straßenschilder im Düsseldorfer “Little Tokyo-Viertel””, 09.12.2021, Hirsch, Marie, https://www.duesseldorf.de/medienportal/pressedienst-einzelansicht/pld/japanische-strassenschilder-im-duesseldorfer-little-tokyo-viertel.html

rp-online.de, “Die Immermannstraße hat jetzt japanische Straßenschilder”, Marc Ingel, 10. December, 2021, https://rp-online.de/nrw/staedte/duesseldorf/duesseldorf-immermannstrasse-hat-japanische-strassenschilder_aid-64519655

uepo.de, “Düsseldorf lässt vier Straßenschilder im japanischen Viertel zweisprachig beschriften”, Richard Schneider, 27. April.2022, https://uepo.de/2022/04/27/duesseldorf-laesst-vier-strassenschilder-im-japanischen-viertel-zweisprachig-beschriften/

duesseldorf.de, “Wie kam so viel Japan nach Düsseldorf?”, 17.06.2020, https://www.duesseldorf.de/internationales/partnerschaften/chiba/aktuelles/aktuelles-detailseite/newsdetail/wie-kam-so-viel-japan-nach-duesseldorf.html#:~:text=Und%20so%20wurde%20D%C3%BCsseldorf%20durch,oder%20die%20Bank%20of%20Tokyo.

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