日本を追放された医師

ヴュルツブルク

ホーフ教会となりには広大なホーフ庭園が広がる。庭園の端には、日本人にとっても馴染みが深い人物の銅像がひっそりと建っている。像のモデルは、鳴滝塾で日本人にもおなじみのフランツ・シーボルト。ひっそりと建っているので見逃す人が多いそうだ。われわれ日本人にとってシーボルトはオランダ人医師というイメージが強いが、ヴュルツブルク生まれのドイツ人だ。

  ホーフ庭園にあるシーボルト像

シーボルトは東洋学の研究に興味を持ち、1822年にオランダ国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、バタヴィア経由で日本にやってきた。長崎の出島のオランダ商館医として働き始めたが、本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は発音が不正確だったために怪しまれたことも多々あったと言う。

1828年に帰国する際、先発した船が難破してしまい、積荷の多くが海中に流出した。一部は日本の浜に流れ着いたのだが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったのだ。これが大問題となり、シーボルトは国外追放処分となった。いわゆる《シーボルト事件》である。

オランダに帰国したシーボルトは、日本学の祖としてその名を世界に轟かせる。1854年に日本が開国したのち、1858年に日蘭修好通商条約が結ばれたことで、シーボルトに対する追放令も解除された。1859年にはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たしている。シーボルトは当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えるとともに、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる情報をヨーロッパに伝えた。自身の生涯を日本研究に捧げたシーボルトは、1866年にミュンヘンで70年の生涯を閉じている。

旧市街からは少し離れるが、ヴュルツブルクにはシーボルト博物館もある。

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