【ドイツ観光】ローマ時代から続く古都 ノイス

ノイス
ノイスの街並み(Source:Verkehrsverrein-neuss)

ライン川を挟んでデュッセルドルフの対岸にある町がノイスだ。ノイスは人口15万人の町で、現在ではデュッセルドルフの行政区分に属するが、町の歴史はデュセルドルフに比べてずっと古い。デュッセルドルフが町に昇格したのは1288年だが、ノイスはすでにローマ時代から存在しており、アウグスブルクとトリーアと並んで「ドイツで最も古い町」のひとつなのである。町の起源は、2000年前に遡る。初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世中、つまり紀元前16年頃、ローマ人は現在のノイスの旧市街の南にローマ軍の大規模な駐屯所を建設した。その後、今日のノイス市の中心部に民間人が居住し始め、急速に繁栄し、交易の中心地となった。

目次

ローマ人が建設した町

《赤い陶器》 (Arentine sigillata) と呼ばれる遺跡の発見により、紀元前16年のエルフト川(Erft)の河口にある最古のローマの軍事拠点として、ノイスの起源は記録されている。ローマの複合施設は、さまざまな規模の9つの連続する駐屯地と別館の駐屯地で構成されていた。これらの駐屯地は、軍隊が必要とする職人や商人とともに、ノヴァエシウム (ラテン語の novio = new を含み、おそらく新しい収容所を意味する) と呼ばれたローマ軍事地区を形成していた。

以前のキャンプエリア (Gnadental) では、ローマの神々の為に作られえた地下室である4世紀のキュベレ(Kybele)を今でも見学できる。ノイスは、他のドイツのローマ都市であるトリーア、アウクスブルク、マインツ、ケルンのような州都の地位を持っていなかったが、クサンテン、ボン、コブレンツ、アンダーナッハ、ボッパルトとともに、ローマ時代の最も重要な駐屯所であり、砦の1つであった。早くも西暦1世紀に文書化された職人と遠距離商人の居住地であったノイスは、ローマ時代を生き延びた。

中世におけるノイス

フランケン王朝の時代、ライン河畔のノイスは、港と船の航行が可能であるという絶好のロケーションと、西と東の道路が交差する大きなラインタール通り(Rheintalstraße)によって発展した。 9世紀、イングランドやフランスはヴァイキングを率いたノルマン人の侵攻を受けているが、ノイスも863年と881年にはノルマン人による侵略により略奪・破壊の対象となっている。
10世紀半ば頃、ザクセン朝時代にノイスはケルン教会に属することとなった。しかし、教会の郊外としてのノイスの重要性はカロリング朝時代にまで遡る。 1962年、考古学者のヒューゴ・ボーガー(Hugo Borger)は、クィリヌス大聖堂(Quirinus-Münster)の地下に、カロリング朝時代の教会の土台を発見している。教会は教区教会であったが、西暦950年頃にベネディクト会修道院の教会へと発展を遂げた。この頃、ローマの兵隊長であり、殉教者クィリヌス(Quirinus)の遺骨がローマからノイスへと移され、聖人の崇拝が始まったとされる。聖人崇拝の巡礼者の一団は、フンスリュック(Hunsrück)、ベネルクス地方からさらに広がり、メリアンの伝えるところによると、1646年にはノイスへの「外国人による大規模な巡礼」が確認されている。

ドイツ大聖堂の上に立つ聖クィリヌス像(Source:wikipedia.de)

言うまでもなく、都市の経済力もノイス発展にとって非常に重要であった。モーゼル川とライン川中流からオランダまでのワイン貿易と、農業 (穀物と家畜の貿易) が経済活動の中心であった。ノイスが最初に文書に現れるのは 1138 年だが、もっと早くから存在していた可能性もあり、都市へと昇格してからのノイスは1190年の文書で言及されている。

12世紀には、聖クイリヌスと「ノイス、聖ケルン教会に忠実な娘」という碑文の入った市の印章が作成されている。《娘》というのは、ドイツ語では「都市」が女性名詞であるからだ。この印章によって、ノイスはケルンの印章を模倣し、都市としての強い自信を示している。 12世紀後半からのノイスの町は要塞化されるが、これは町の発展においても最も重要な兆候といえる。
1474年から1475年にかけて、シャルル突進公こと、ブルゴーニュ公シャルル2世との戦争が勃発した。ノイスは神聖ローマ帝国からの救援を得ることもできないまま、ほぼ1年間にわたってその包囲に耐えたのだった。

シャルルの軍隊が撤退した後、皇帝フリードリヒ3世はノイス市民の勇気に対して報いた。 関税特権、ハンザ同盟都市の権利、帝国のワシと皇帝の王冠をあしらった新しい紋章、通貨鋳造権が与えられ、都市の力と地方領主からの独立心を搔き立てた。

中世後期、ノイスは羊毛やリネン製品、醸造製品、蜂蜜ケーキ、皮革製品の長距離貿易で経済の全盛期を迎えた。中世盛期と同様、ノイスの人々は主にワイン、穀物、牛を取引しており、とりわけ、ハンザ都市、ニーダーザクセン、ヴェストファーレン、ドイツ中部および南部、オランダが主な取引相手であった。

16世紀、バイエルンとスペインの間で《ケルン戦争》が起こったが、この時、ノイスはスペイン人の征服を経験することになった。 《ケルン戦争》が終結した後も、1586 年に発生した大火で市の3分の2が焼失するという悲劇が起こっている。 1642年から1651年にかけて、フランスと同盟を結んでいたヘッセンの占領と、フランスのルイ14世が仕掛けた数々の戦争により、ノイスは非常に厳しい財政状況に置かれることとなった。戦争税と長引く占領により、債務負担が大幅に増大し、都市のさらなる発展を大きく妨げたのだ。その結果、ノイスは交易の要所としての重要性を失ってしまう。17世紀半ばには、ノイスは単なる農地へと落ちぶれてしまい、町が経済的に回復したのはようやく19世紀になってからである。

フランス統治時代

1794年からのフランスによる統治下でノイスにもたらされたのは、占領と戦争税だけでなく、組織化された行政システムとフランス法であった。この時代、多くのノイス市民が、フランスからの分離とケルン選帝侯領の再建を望んでいたが、フランス語が公用語とされ、領地の特権は廃止された。1800年からは市長が任命され、州の直接行政の機関として合議市政に取って代わった。こういったノイス市の近代化により、それまでノイスで好き勝手に暴れまわっていた《フェッツァー》(Fetzer)という強盗とその一味もノイヴィート(Neuwied)へと追いやられていった。

フランス統治時代の最も重要な出来事は、1803年から計画され、1808 年から実施された皇帝ナポレオンの命令による北運河の建設であった。ライン川、ムーズ川、スヘルデ川の間の接続は、グリムリングハウゼンから確立されることになっていた。しかし、フランスがオランダを併合してムーズ川とライン川の港を獲得したため、建設は1810年に再び中止された。 1814年、フランスの支配は終わりを告げ、ノイスは、1815 年のウィーン会議とそれに伴う州の再編成により、ライン川下流域の合同政府にとどまることとなった。

プロイセン時代から現代まで

1815年、ラインラントはプロイセン王国に属することとなった。フランスのノイス事務局がプロイセン市長の事務所となり、ドルマーゲン(Dormagen)、ネッテスハイム(Nettesheim)、ニーフェンハイム(Nievenheim)、ロマースキルヒェン(Rommerskirchen)、ツォンス(Zons)とともにノイスにも市庁が置かれた。この当時、ノイスには約6,333 人が住んでいた。市は第一次世界大戦後、特に 1835年から 1837年にかけてエルフト運河が拡張され、1853年からは鉄道が敷かれた。この当時、ノイスの人口は9,000人に増加していたが、工業化の過程で、人口は1880年までに17,500人にまで達している。

1813年以降、石油産業 (ナタネ油など) は繊維工場よりも急速に成長した。1846年には、ノイスの製油所はドイツで最も重要な製油所のひとつとされ、1864年にはキャスパー・ティッセン(Casper Thywissen)製油所はドイツ最大の製油所であった。さらに、銀行と金融の重要性も増していった。港はノイス経済にとって特に重要であり、1840年以来、船は石炭、木材、建材、石材を輸送した。19世紀末、港の拡張後、ノイスは目覚ましい産業ブームを経験した。 1910年にはまだ 40,000人だった住民の数は、1963年には 100,000人に、そして今日では 150,000 人へと増加している。

参考:

neuss.de, “Stadthistorie – Vom Römerlager zur rheinischen Großstadt”, https://www.neuss.de/leben/stadtgeschichte/stadthistorie

コメント

タイトルとURLをコピーしました