【ドイツの歴史】暗殺されたドイツ王

バンベルク

バンベルク大聖堂の騎士像

バンベルク大聖堂に飾られた騎士像は、1235年頃に建てられたとされるが、そのモデルが誰であったのか定説がなく、多くの議論を呼んでいる。ローマ皇帝コンスタンティヌス、ハンガリー王聖シュテファン、またはザクセン朝のドイツ王ハインリッヒ2世やシュタウフェン朝のフリードリヒ2世を表しているとの説もある。

これらの諸説に共通しているのは、この人物が王族に連なる者であったということだ。なぜなら、馬上の騎士の頭上には、はっきりと王冠が見て取れるからである。有力な説のひとつが、シュタウフェン朝のローマ王フィリップ・フォン・シュヴァーベンであったのではないかという説だ。フィリップをモデルとする考えには理由がある。このローマ王が、皇帝への戴冠を目前にして、この地で無残にも暗殺されたからである。

人生の転機

フィリップ・フォン・シュヴァーベンは、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世と2番目の妻ベアトリクスとの間に生まれたシュタウフェン家出身のローマ王である。ベアトリクスは多産で、フリードリッヒとの間に11人の子を産んだが、フィリップは末子であり、兄にはフリードリッヒ1世亡き後、皇帝位を継いだハインリッヒ6世がいる。

フリードリヒ・バルバロッサの末っ子として、もともと聖職者としてのキャリアを運命づけられていたフィリップは、当初、ドイツ王になる見込みはまったくなかった。 幼少期のほとんどをアルザスのアグノー宮殿で過ごしたが、その時代についてもほとんど知られていない。 1188年頃、フィリップはホーエンシュタウフェンからほど近いアデルベルクのプレモント修道院で教えを受けた。 1191年、わずか14歳の頃、ヴュルツブルク司教に選出されている。 1197年、フィリップは、ビザンツ皇帝イサーク2世アンゲロス(Isaak II Angelos)の娘であるイレーネ・マリア(Irene-Maria)と結婚した。イレーネは、シチリアのノルマン王ロジャー3世(Roger III)と結婚していたが、夫は結婚後すぐに亡くなってしまった為、フィリップと再婚することになったのだ。

そんなフィリップの人生が決定的な転機を迎えるのは、兄のハインリッヒ6世が十字軍で亡くなったことだった。フィリップの兄、ハインリッヒ6世は、シチリアでオートヴィル朝を開廟したるルッジェーロ2世の娘、コンスタンツァと結婚し、息子フリードリヒをもうけていた。後にシチリア王位を受け継ぎ、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世となる人物であり、フィリップにとっては、自身の甥にあたる。1197年9月、フィリップはまだ幼少のフリードリッヒをアーヘンの戴冠式へ無事に送りとどけるべく、護衛をするために、プーリア方面に移動していた。 一行がローマの北、100㎞にあるボルセナ湖(Lago di Bolsena)の近郊の町、モンテフィアスコーネ(Montefiascone)に差し掛かった時、フィリップは驚くべき知らせを受け取った。兄であり、神聖ローマ皇帝であったハインリッヒ6世が、メッシーナで急死したというのだ。

ハインリッヒ6世の急死

1197年、シチリア遠征中であったハインリッヒ6世は、フィウメディニシ(Fiumedinisi)近くで狩猟をしてたが、その時にひどい悪寒を感じ、体調不良を訴えた。 その後、一か月後には病状は回復したかのように見えたが、そのまま帰らぬ人となった。ナポリで感染したマラリアであったと言われる。わずか31歳であった。

ハインリッヒ6世死亡の報に接したフィリップは、甥であるフリードリッヒの王権を確保しようと動いた。しかし、実のところは、フィリップはまだ年端も行かない甥を傀儡とし、帝国の実権を握ろうとしたのだった。ハインリッヒ6世の死後、幼きフリードリッヒの摂政を務めていた母、コンスタンツァ(Costanza d’Altavilla)は、フィリップの思惑を止めようと、時のローマ教皇インノケンティウス3世を頼った。「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である。」と言った教皇権の絶頂期を体現した《最強のローマ教皇》である。ハインリッヒがシチリアで命を落とした1年後、妻のコンスタンツァも44歳で突如死去する。死因は伝わっていない。こうして、コンスタンツァの死後、教皇インノケンティウス3世が、フリードリッヒの摂政を務めることとなる。

さすがにフリードリッヒでは、次期神聖ローマ皇帝としては若すぎたので、フィリップは自身で皇帝選挙に立候補した。諸侯に金銭と引き換えに、自身の陣営に引き入れたが、反シュタウフェン王朝の急先鋒であったケルン大司教アドフルも、その状況を黙ってみていたわけではなかった。彼は、シュタウフェン朝に反対する勢力を纏め挙げ、独自の皇帝候補擁立に動いていた。この時に、次期皇帝候補として、フィリップの対立王として担ぎ出されたのは、シュタウフェン家の宿敵ヴェルフェン家出身のオットーである。オットーの父親は、ハインリッヒ獅子公であり、かつてはザクセンとバイエルンをその支配下に納めた一大諸侯である。ハインリッヒ獅子公は、シュタウフェン家の皇帝フリードリッヒ・バルバロッサから寵愛を受けたものの、イタリアへの従軍を拒否したため、帝国追放の憂き目に会った。妻のマティルダ・オブ・イングランドの実家であるイングランドに逃亡せざるを得なかった。その時に、ハインリッヒ獅子公と英国に渡り幼少期を過ごしたのが、幼き日のオットーであった。これほど、反シュタウフェンの旗印として適任の人材もいなかった。こうして二人の対立王が皇帝位を激しく争うこととなった。

ローマ王への戴冠

フィリップは、皇帝位継承に必要な記章(皇帝の王冠、皇帝の剣、皇帝のオーブ)を所持していたが、戴冠は、アーヘンにおいてケルン大司教から冠を受ける必要があった為、戴冠式をすぐに執り行うことはできず、ヴォルムスに蟄居していた。対するオットーはケルン大司教を味方につけており、フィリップがぐずぐずしている間に、歴代皇帝の戴冠の伝統に従い、1198年7月12日、ケルン大司教によって、アーヘンで戴冠を受けたのであった。オットー戴冠から遅れること2か月、1198年9月8日、フィリップはマインツ大聖堂では、ケルン大司教ではなく、ブルゴーニュ大司教アイモ・フォン・タレンテーズ(Aimo von Tarentaise)によって、ローマ王に戴冠されている。

この二人による皇帝位を巡る争いは、転換を迎える。ローマ教皇インノケンティウス3世がオットー擁立を決めたのである。教皇は、シュタウフェン王朝によるイタリア支配を嫌っており、フィリップの皇帝就任には反対であった。そこで、資金力がなく、影響力にも乏しいオットーをより御しやすいと考えたのである。そこで、教皇はオットーの皇帝就任を決め、これまでに前例のない、教皇による皇帝選挙への介入を行ったのである。

しかし、この状況でも、フィリップは諦めなかった。今度はオットーを支援する諸侯に戦いを挑み、実力に訴えたのである。フィリップは連勝を重ね、当初はオットーを支援していた陣営が、フィリップ支援に傾いていった。そして、フィリップに幸運が訪れる。オットーが資金援助を受けていたイングランドが、フランスとの戦いに敗れ、援助資金が断たれたのである。こうしてオットーの勢いも急激に低下する。この状況を見て、ローマ教皇インノケンティウス3世も、オットーを見限り、二人に和解を提案する。交渉はフィリップ優位に進められたが、オットーはフィリップによる和解案を一蹴。2人による戦いは続くかに見えた。しかし、両者の戦いはあっけない幕切れを迎える。皇帝位をほぼその手中に収めつつあったフィリップが暗殺されたのだ。

ヴィッテルスバッハ家との確執

事の発端は5年前の1203年に遡る。この年、フィリップは三女のクニグンデをヴィッテルスバッハ家のオットー8世と婚約させた。これは当時苦戦していたテューリンゲン方伯ヘルマン1世との戦いに対して、ヴィッテルスバッハ家を味方陣営に取り込む意図があった。 しかし、この婚約からの数年間で、フィリップはローマ王としての影響力を増し、愛娘の嫁ぎ先に関しても別の考えを持ち始めていた。帝国における自身の基盤を盤石のものとするためには、ボヘミアからの支援が必要であると感じたフィリップは、クニグンデをボヘミア王の息子に嫁がせることにしたのである。1207年11月、クニグンデにヴィッテルスバッハとの婚約を破棄させ、ボヘミア王オットカル1世の息子、ヴェンツェルと婚約させた。 この所業はヴィッテルスバッハ家にとっては侮辱以外の何物でもなかった。

翌年の6月末、バンベルクでは、フィリップの姪にあたるブルゴーニュ公ベアトリクス(Beatrix von Burgund)とメラニア公オットー7世(Otto VII von Meranien)の結婚式が行われていた。フィリップも出席の予定であった。ヴィッテルスバッハ家は、昨年、フィリップが自身の三女クニグンデとヴィッテルスバッハ家の婚約を破棄した代わりに、この結婚式の席で、フィリップの3人の娘のうちの一人とヴィッテルスバッハ家の新たな婚約を発表するのではないかとの期待があった。しかし、フィリップは直前になって、この結婚式への出席自体を取りやめてしまったのである。オットー4世とその同盟諸侯に対する遠征の準備を優先させたのである。 結婚式はフィリップ不在で行われ、ヴィッテルスバッハ家の期待は裏切られた。ヴィッテルスバッハ家にとっては、恥の上に恥を塗られた格好となった。

暗殺、そしてその余波

結婚式を終えたオットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハはバンベルクの宮殿にフィリップを訪ね、怒りに震える手で部屋のドアをノックした。フィリップはオットーが自身の腹心だったので、何の疑いも持たず、部屋へと招き入れた。 フィリップはいつものようにオットーが冗談でも言うのかと思ったが、オットーは突如、剣を抜き、フィリップに向かって「これも貴様のためのお遊びであってなるものか!」と叫びながら、ローマ王の首筋に切りかかったのだった。頸動脈を切られたフィリップはその一撃で絶命した。

フィリップを暗殺するヴィッテルスバッハ家のオットー8世。ザクセン年代記のイラスト、北ドイツ、14世紀初頭。ベルリン、国立図書館、プロイセン文化財団。(de.wikipedia)

フィリップを暗殺したオットー8世は、伴っていた従者と逃亡に成功している。しかし、フィリップが死亡したことで皇帝となるヴェルフェン家のオットー4世は執拗に暗殺犯を追跡した。フィリップが暗殺されたことにより、最大の利益を得るのはオットー4世である。その為、オットーは、フィリップ暗殺に関して、自身に向けられた疑惑を払う為に、何としても犯人を捕らえ、暗殺に与したものに厳罰を与える必要があった。暗殺への関与を疑われたバンベルク司教エグベルトらは全財産を没収された上、帝国追放令が下された。同時にオットー4世は、亡くなったフィリップの長女ベアトリクスとの結婚を発表した。

翌年3月、暗殺犯のオットー8世は、レーゲンスブルク近郊のドナウ川沿いの穀倉地帯、オーベルンドルフ(Oberndorf)で発見され、帝国元帥ハインリッヒ・フォン・カルデン(Heinrich von Kalden)によって殺害された。 オットーの頭はドナウ川へと投げ捨てられ、体は樽の中に放り込まれ、後にインダースドルフ修道院(Kloster Indersdorf)の修道士たちに埋葬されるまで、何年もの間そのまま放置されたのだった。

1208年6月にバンベルクで夫が殺害された後、妻のイレーネはホーエンシュタウフェン城に引き籠った。身重のイレーネは病気を患っていたが、娘を出産中に帰らぬ人となった。 夫が暗殺されてからわずか2か月後のことであった。死後、イレーネはロルヒ修道院に埋葬されている。

その後

こうしてフィリップとオットーによる皇帝位争いは、予想外のあっけない幕引きとなった。神聖ローマ皇帝位は、シュタウフェン家の指を滑り落ち、ヴェルフェン家の手に収まる。こうして、コンラート3世から続くシュタウフェン王朝は一時途絶えるのであった。こうして、この暗殺は、最初の(そして最後の)ヴェルフェン家の皇帝を生み出した。しかし、シュタウフェン朝に続いたオットーの治世が思いのほか短命に終わり、もう一度帝冠がシュタウフェン家に戻ってくることを、この時に想像した者はまだ誰もいなかった。

オットー4世の失脚後、皇帝位を継いだシュタウフェン家のフリードリッヒ2世は、バンベルクに埋葬されてあったフィリップの遺骨をシュパイヤーへと移させた。こうして、1213年のクリスマス、フィリップはシュパイヤー大聖堂に埋葬された。シュパイヤー大聖堂は、ザーリア朝、シュタウフェン朝の菩提を祀る特別な場所であり、ローマ=ドイツ王にとって最も重要な埋葬地であった。 フリードリッヒ2世は、叔父フィリップの遺骨を移すことで、このザーリア=シュタウフェン朝の伝統に従ったのであった。フィリップは、ハプスブルク家のアルブレヒト1世と共に暗殺された唯一のローマ系ドイツ人の支配者となった。皮肉なことだが、この二人は、共にシュパイヤー大聖堂の同じクリプタの中に埋葬されている。

奇しくも、暗殺された二人のドイツ王が同じ大聖堂の同じクリプタに埋葬されている。

フィリップが暗殺された理由は、今日に至るまで不明であり、他に共犯者が存在したのかどうかも明らかになっていない。フィリップの正確な生年月日は不明だが、殺害されたときは31歳であったと言われている。歴史学者のブルヒャルト・フォン・ウルスベルク(Burchard von Ursberg)によれば、彼は穏やかな性格であったと言われる。 20世紀初頭までシュパイヤー大聖堂の鉛の棺に安置されていたフィリップの骨を調べたところ、繊細な体格であったことが確認された。 フィリップが暗殺されたバンベルクは、シュタウフェン家にとっては鬼門となったのか、以後は一族から遠ざけられたと考えられる。一族から忌み嫌われることとなったこの地で、バンベルク大聖堂の騎馬像は志半ばで倒れたローマ王の在りし日の姿を偲んでいるのかもしれない。

参考:

参考:

damals.de, “Ein Mord aus verletzter Ehre?”, 29. Mai 2008, Prof. Dr. Knut Görich, https://www.wissenschaft.de/magazin/weitere-themen/ein-mord-aus-verletzter-ehre/

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