スイス北西部を流れるロイス川。深い谷間を蛇行するその川のほとりに、初夏の光が水面にきらめき、周囲の緑の丘陵を柔らかく照らす。この静寂の景色は、1308年5月1日に血なまぐさい歴史を刻んだ場所でもある。かつてここで、ハプスブルク家の一族の運命を大きく揺るがす悲劇が起こった――ヨハン・パリツィーダが叔父アルブレヒト1世(Albrecht von Habsburg)を討った瞬間、冷たい川のせせらぎに歴史の暗い影が落ちたのだ。今なお、川沿いの風はその日の緊張と裏切りの記憶をそっと運んでくるかのようである。


ヨハンは、公爵ルドルフ2世とプシェミシュル家出身のボヘミア王オットカル2世の娘アグネスの一人息子として生まれた。父ルドルフ2世は、ハプスブルク家初の神聖ローマ帝国王ルドルフ1世の末息子で、1282年には兄アルブレヒトと共にオーストリア=シュタイヤーマルク公国を共同統治する立場にあった。しかし、1283年、アルブレヒトが単独相続人として公国を継承すると、父への補償は宙に浮いたまま残されることになった。

1291年、ルドルフ1世の死後もその問題は解決されず、王位を得たアルブレヒトは帝国北西端のホラント、ゼーラント、フリースラント各郡の没収に取り組み、弟ルドルフへの継承も視野に入れていた。
母アグネスはボヘミア王家の出身であり、ヨハンはプシェミスル家とハプスブルク家という二つの血筋の狭間で育った。1278年、マルヒフェルトの戦いでオタカル2世が戦死した後、アグネスとルドルフ2世の結婚は、政治的和解の象徴であり、幼いヨハンはその影に包まれた運命を背負っていた。父ルドルフの突然の死(1290年)により、ヨハンは母と共にシュヴァーベンやプラハで暮らすこととなる。
1305年、ボヘミア王ヴァツラフ2世の死、いとこヴァツラフ3世の暗殺によって、王位継承の論争が激化する。母方の血筋にもかかわらず、ヨハンはボヘミア王位継承候補から排除され、叔父アルブレヒトの息子ルドルフ3世が王座に据えられることになる。支持者のいない甥ヨハンに、叔父は慰めの言葉を投げかけるだけであった。
幾度も拒絶され続けた怒りは、やがて復讐の炎へと変わる。シュヴァーベンのハプスブルク家のライバルたちの甘い言葉に煽られ、ヨハンは力に訴える決意を固めた。1308年5月、初夏のうららかな日曜日、アルブレヒトが故郷への旅でロイス川を渡り、側近から離れた瞬間――その時を待ち構えていたヨハンと共謀者が動いた。妻と側近の眼前で、アルブレヒトの頭蓋はヨハンの剣に貫かれ、一撃で命を奪われた。
帝位は、教皇クレメンス5世やトリーア大司教バルドゥイン、マインツ大司教ペーター・フォン・アスペルトの支持を得たルクセンブルク家のハインリッヒ7世に移り、ハプスブルク家の手から滑り落ちた。暗殺後、ヨハンは一時逃亡に成功したが、新皇帝ハインリッヒ7世の命により帝国から追放される。アルブレヒトの娘ハンガリー女王アグネスも、復讐を胸にいとこを追った。
ヨハンのその後は不明瞭である。1312年、北イタリアのピサでハインリッヒ7世に面会した記録があるが、投獄されたのか修道院で罪を償ったのか、詳細は伝わらない。ピサのサン・ニッコロ修道院教会(San Niccolo)にある墓石の碑文は、ヨハンがその後まもなく他界したことを示唆しているが、ヨハンがその後も生き延びたことを暗示する伝説も巷に流布された。ウィーンのノイアーマルクトでは盲目の物乞いがヨハンの息子を名乗り、森で暮らしていた女性と共に生活していたとの伝説も残る。暗殺者の生存伝説は、アルブレヒトの支配が民衆から不評であったことにより、多少の好意的解釈が生まれた結果であろう。
暗殺されたアルブレヒトは、シュパイヤー大聖堂に葬られた。新皇帝ハインリッヒ7世は、歴代皇帝の眠るこの聖堂にアルブレヒトを埋葬することで、自身の戴冠の正当性を示したのである。アルブレヒトの隣に眠るのは、父であり、ハプスブルク家から初めて神聖ローマ皇帝となった始祖ルドルフ・フォン・ハプスブルクである。

だが、ハプスブルク家の血なまぐさい争いは終わらなかった。暗殺からわずか5年後、アルブレヒトの息子フリードリッヒと甥ルートヴィッヒは皇帝位と領地を巡り争い、ガンメルスドルフの戦い(1313年)、ミュールドルフの戦い(1322年)として、ドイツ史にその名を刻むことになるのである。

そして血塗られた事件を記憶するため、未亡人エリザベート(Elisabeth von Görz-Tirol)は1308年、スイスのヴィンディッシュ市にケーニヒスフェルデン修道院を建立した。娘アグネスはそこに移住し、広大な土地を管理し、修道院を繁栄へと導いた。

2009年以来、博物館になっている。
ここには 14 世紀のステンドグラスがあり、
ベルン大聖堂のステンドグラスと並んでスイスで最も価値があると言われている。
アルブレヒトが暗殺された1308年5月1日は、ハプスブルク家の「暗黒の日曜日」として、今も人々に記憶されている。血と権力が交錯したハプスブルク家の運命は、冷たい石造りの修道院や大聖堂の影に刻まれ、時代を超えてささやき続ける。生と死、裏切りと復讐、そして無情な歴史の奔流の中で、ヨハン・パリツィーダの影もまた、忘れ去られることなく、静かに息づいているのである。ロイス川の谷間で起こった悲劇と、修道院の静かな庭園の調和は、時を経ても人々の想像力をかき立て、歴史の重みと土地の息遣いを今に伝え続けている。
参考:
habsburger.net, “Johann „Parricida“: Ein Mord im Hause Habsburg”, Martin Mutschlechner, https://www.habsburger.net/de/kapitel/johann-parricida-ein-mord-im-hause-habsburg




コメント