《熊》と呼ばれた伯爵

ベルリン

べリリン・シュパンダウ地区にあるシュパンダウ要塞。ここに建てられた、十字架を掲げる騎士の像は、《熊》とあだ名されたアルブレヒト辺境伯のものだ。この像は、もともとベルリン・ティアガルテンにあるジーゲスアレーにあったが、1979年以降、現在の場所へと移された。この像のモデルとなったアルブレヒト辺境伯は、1157年、ハーヴェル川西方を占領したのち、その支配領を警護する為に、シュプレー川とハーヴェル川を戦略拠点として固め、要塞の建設を開始した。

シュパンダウ要塞にあるアルブレヒト辺境伯像

12世紀、ドイツ人とスラブ人がマーク・ブランデンブルクに定住を始めた。ヘフェル人(Heveller)とスプレワネン族(Sprewanen)は、現在の大ベルリン地域に当たる場所に定住していた。今日のマクデブルクとブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル周辺の西部は「ノルトマルク」と呼ばれ、ドイツ帝国に属していた。 1134年、皇帝ロタール3世は、ハルバーシュタット(Halberstadt)における国会で、アンハルト伯アルブレヒトをノルトマルク辺境伯として任命した。

アルブレヒトは勇敢な兵士であり外交官でもあった。 1137年に彼はブランデンブルク北部にあるプリーグニッツ(Priegnitz)を征服したが、1147年に妻と共にキリスト教に改宗し、その後、ヘフェル公爵プリビスラフ・ハインリッヒ(Pribislaw-Heinrich)と同盟を結んだ。
1134年以降、東エルベで活発な植民地化が始まった。伐採された森林の真ん中から多くの村が誕生したのだった。アルブレヒトはライン下流地域、フリージア、ザクセンから入植者を自国へと連れて行き、アンハルト出身のドイツ騎士団の保護下に置いた。フランダースからの入植者は、堤防建設と河川規制、そしてレンガ建設の技術と経験をマルクにもたらした。こうしてシュテンダール(Stendal)、ハーフェルベルク(Havelberg)、シュパンダウ(Spandau)などの都市が誕生した。
プリビスラフ・ハインリッヒが亡くなった後、ブランデンブルク南部のザウシュ(Zauche)の領土はアルブレヒトのものとなった。これにより、国は平和になり、統合されたかのように見えた。アルブレヒトは「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世に忠実に従っており、皇帝の北イタリア遠征にも同行していた。しかし、アルブレヒトの不在を狙っていたものがいた。スラブ人の大将、ポール・ヤクサ・フォン・コプニック(Pole Jacza von Copnic)である。

ヤクサ・フォン・コプニック (Source:wikipedia.de)

ヤクサの活動の拠点は、今日のベルリンのケーペニック地区(Köpenick)、かつてスプレワネンブルク・コプニック(Sprewanenburg Copnic)と呼ばれた土地であった。その地名を取ってヤクサ・フォン・コプニックと称していた。ヤクサはアルブレヒトが受け継いだブランデンブルクを虎視眈々と狙っており、その機会を注意深く伺っていた。そしてついにその機会が到来する。アルブレヒトがイタリア遠征に出かけたのだ。

ブランデンブルク・アン・デア・ハーヴェル(Brandenburg an der Havel)でも長い冬が終わりを告げ、雪が溶けだしはじめていた。その頃、ヤクサ率いるスラブ人の軍隊がブランデンブルクの市壁に向かって行進を開始する。ブランデンブルク要塞の守備隊は敵が接近してくるのをしっかりと視界に捉えていた。警備兵は敵軍の接近を確認するや否や、手にしていた武器をその場に置き、一目散に自分の持ち場を立ち去った。ブランデンブルクの警備兵はヤクサ軍に買収されていたのだ。この時、ヤクサが報酬として支払った代償はわずか数袋のドゥカートだけであったというが、警備兵の裏切りにより、ブランデンブルクはヤクサの侵入を簡単に許してしまう。

ヤクサのブランデンブルク侵入は易々と成功し、アルブレヒトがこの町で築き上げてきたすべてを破壊すると宣言した。スラブ軍はブランデンブルクを占領した印として、異教の像である三頭の神トリグラフ像を町に建てた。これはアルブレヒトが1147年にキリスト教に改宗した際に倒したものであった。このヤクサの挑発に対し、アルブレヒトは急遽イタリアから戻ると、マクデブルク大司教、ヴィヒマン・フォン・ゼーブルク(Wichmann von Seeburg)と共に軍隊を編成した。

1157年6月、アルブレヒト率いるドイツ軍はハーフェル河畔に陣取り、ヤクサが占領するブランデンブルクの町を包囲。アルブレヒトは四方八方から猛攻撃を浴びせたため、ヤクサの部隊は大打撃を受け、攻撃開始からわずか数日後の6月11日に降伏した。スラブ軍の大将ヤクサは、アルブレヒト軍に捕らえられる瞬間になんとか城からの脱出に成功したが、もはやアルブレヒトに対抗する力は残っていなかった。

ブランデンブルク奪還を成功させたアルブレヒトは、この勝利を明確に記録し、他の諸侯に対して喧伝するためにも、これまで使用してきた「ノルトマルク辺境伯」としての称号を放棄し、それ以降は「ブランデンブルク辺境伯」を名乗った。 1157年10月3日付けの文書で、「神が与えたブランデンブルク辺境伯により」という表現で、アルブレヒトは初めて公式に「ブランデンブルク辺境伯」を名乗っている。 1170年に亡くなるまで、アルブレヒト1世はブランデンブルク辺境伯領の国家元首、裁判官、そして軍の司令官を兼任し、自身の領土の発展に勤めた。

アルブレヒトの同時代人にはヴェルフェン家の公爵、ハインリッヒ3世がいる。ハインリッヒは《獅子公》の異名を持ち、帝国中にその勇名を馳せていた。年代記者のヘルモルド・フォン・ボサウ(Helmold von Bosau)は、その《獅子公》を意識しつつ、アルブレヒトの勇猛さを称して《熊公》というニックネームを付けた。スラブ人を退け、見事ブランデンブルクを奪還した《熊公》。850年前のこの出来事をもって、ブランデンブルク辺境伯の誕生とされる。

参考:

welt.de, “Ein Bär und die Geburtsstunde Brandenburgs”, 13.07.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1022453/Ein-Baer-und-die-Geburtsstunde-Brandenburgs.html

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