ブランデンブルクの15歳の王

ベルリン

ベルリンのシュパンダウ地区。シュパンダウ旧市街の北には、シュパンダウ要塞(Zitadelle Spandau)がある。この要塞の中核は中世に建てられた城であり、その砦と宮殿は現在でもよく保存されている。 1559年から1594年にかけて、当時の最新技術に従って要塞が建てられた。現在、内部は博物館となっている。

この要塞では、2016年以降、「ベールを脱ぐ―ベルリンとその記念碑(Enthüllt – Berlin und seine Denkmäler)」と名付けられた常設展示が行われている。展示会の中でもっとも有名なものは、1991から1992年に取り壊され、ベルリン郊外の砂場に23年間埋もれていた東ベルリンのレーニン記念碑の頭部だろう。

この要塞の展示品のなかには、2009年5月に、ベルリンのティーアガルテンにあった旧ジーゲアレー(Siege Allee)に並べられていた26体の彫像と40体の胸像が含まれている。これらの銅像は、1165年から1888年までのブランデンブルク、プロイセンの王、ドイツ皇帝と選挙人をモチーフにしている。「勝利の並木道( ジーゲアレー )」は第二次世界大戦後に取り壊され、銅像の一部は失われましたのだった。残った銅像のうち、損傷したモニュメントは修復され、シュパンダウ要塞に展示されることになった。この銅像群のうち、損傷も少なく、保存状態の良いものは、20世紀の彫刻家、ヨハネス・ゲッツ(Johannes Götz)によって作られたブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の銅像だ。

ヨアヒムはブランデンブルク辺境伯ヨハン・シセロ(Johann Cicero)の子として生を受けた。 幼少期はフランケン地方で教育を受け、 1499年の父親の死後、弟のアルブレヒ(Albrecht von Brandenburg)と共に領土を受け継いだのは、わずか15才の時だった。しかし、周囲の大方の予想に反し、この若き領主はその非凡な才能を見せるのだった。

「何かを盗まれたのなら、ブランデンブルク辺境領を調べろ。」15世紀の終わりのドイツでは、こういった悪意のある発言が巡回していた。実際、強盗騎士たちはブランデンブルクの評判に深刻な打撃を与えていた。しかし、この状況は1499年以降根本的に変わることになったのだった。

15世紀の初め、強盗を働いていたブランデンブルク辺境伯領の強盗騎士団は、ホーエンツォレルン家の選帝侯フリードリヒ1世によって排除されており、強盗と封建貴族もまた、以前ほど過激な行動をとらなくはなっていた。しかし、15世紀の終わりには、長距離貿易の拡大と農業の激化という2つの現象が起こっていた。

穀物の価格の上昇はまた、多くの貴族の地主がマルク地方の農家からより多くの収入を得ることを意味した。しかし、この新しい流れに従わず、またそれを望んでもいなかった少数派も存在した。彼らはどんな農業活動も軽蔑し、違法活動に専念することを選んだ。

この時代、自分たちの支配地域に入った者を護衛する権利を主張する貴族が現れた。代金を払って護衛に対して払わない旅行者や商人は攻撃され、略奪を受けたのだった。こういった貴族はまた、彼らの城に領土外からの泥棒男爵たちを収容する権利を取得したのだった。これは諸都市の貿易にかなりの損害を与え、商品の価格がさらに上がることとなった。みかじめ料を強要することで利益が得られないときは、農場、村、集落が攻撃され、略奪されたのだった。こういった悪行を行う者は庶民の間でよく知られていた。

1499年、ヨアヒム1世がブランデンブルク領を引き継いだとき、彼も誰が悪行を行っているのか把握していた。ヨアヒムはまだ15歳だったので、ブランデンブルク地方の強盗騎士は、自分たちの活動に何ら影響がないと考えていた。しかし、彼らは大きな勘違いをしていたことはすぐに判明するのだった。1495年に帝国で宣言された「永久ラント平和令」に従い、ヨアヒムは一貫して彼の領土内での強盗行為と私闘に対して行動を起こした。平和を破壊する者は高貴なものであっても捕らえられ、刑務所に投獄されたのだった。新選帝侯の治世の最初の年だけで146もの罰が文​​書化されている。

ヨアヒム1世


ヨアヒムも抜本的な対策を躊躇しなかった。 1504年、彼は繰り返し罪を犯したリンデンベルク(Lindenberg)の騎士3名を「領土を汚したもの」として絞首台に掛けた。他に40人近くの悪党貴族がこの3名と運命を共にしたのだった。もちろんヨアヒムの行動は抵抗にあった。時には選帝侯の命が脅かされたこともあった。ある夜、匿名の男、がベルリン王宮のポータルに次のような落書きを残した。

「ヨアヒムちゃん、ヨアヒムちゃん、どうぞお気をつけください。我々に捕まえられたら、あなたは絞首刑だ。」

特に選帝侯のこういった措置は貴族階級に対して実施されたことは、周囲にも明白であったので、貴族の間から不満の声が上がった。

「私は高貴な血を流したことはない。私が処刑したのは、悪党、強盗、殺人者だけだ。」ヨアヒムは躊躇せず、こう答えたという。「彼らが真の貴族であれは、犯罪など犯さなかったであろう。」

1502年、オッターシュテット(Otterstedt)はケペニッカーハイデ(Köpenicker Heide)で仲間とともに選帝侯を待ち伏せした。短い小競り合いの後、オッターシュテットは捕らえられ、斬首刑に処せられた。切り落とされた頭は鉄の棒に槍で突き刺され、見せしめとしてベルリンで掲げられた。1504年2月には早くも、ヨアヒムは叔父に「毎日、苦痛と強盗と戦っている」と書き伝えている。

ヨアヒム1世は、ホーエンツォレル家が武力に長けているだけでなく、十分な教養を備えた君主であることも示した。 1506年4月、ヨアヒムはオーデル河畔のフランクフルトに「ヴィアドリーナ(Viadrina)」と呼ばれる大学を開設した。

1516年、ヨアヒムはベルリン控訴裁判所も設立。これは、紛争を公平に判断し、過度な抗争を避け、友好的な解決の道を目指す為に設立されたのだった。ブランデンブルク=プロイセンの法による支配はここから始まったといえる。 1535年に亡くなった選帝侯は、死後に、賢明な顧問という意味でギリシャ神話から取って「ネストール(Nestor)」という呼び名を与えられたが、まさに彼にふさわしい名前であった。

参考:

welt.de, “Joachim von Brandenburg – ein Kurfürst räumt auf”, 10.11.2007, Jan von Flocken, https://www.welt.de/kultur/history/article1347993/Joachim-von-Brandenburg-ein-Kurfuerst-raeumt-auf.html

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