【ドイツの伝承】ヘルマン・グリンと空腹のライオン

ケルン

ケルン大司教と市長の物語

13世紀、ケルンでは、ファルケンブルクのエンゲルベルト大司教(Engelbert)が教会の支配権を握り、貴族・市民と対立を繰り返し、血なまぐさい戦いに発展していた。大司教には自身を支持する二人の律宗司祭がおり、司教の飼っているライオンを大事に世話していた。この頃ケルン市長を務めていたヘルマン・グリンは、ケルンの貴族・市民の側に立ち、市民の権利を擁護するために絶えず司教と論争を繰り広げてはいたものの、個人的に市長と敵対することはなかった。

事件は1266年某日に起こった。大司教の親しい友人であった二人の律宗司祭は市長を祝宴に招待した。律宗司祭たちは市長がやって来るその日まで、飼っていたライオンにエサを与えず、空腹にしておいた。カノンの二人は食事の前に市長にライオンをお見せしましょうと申し出た。二人は市長のヘルマン・グリンをライオンの檻まで連れて行き、市長が檻の前に立ったのを確認すると、すかさず檻の扉を開け、市長を檻の中に押し込んだ。ふたりは市長の後ろで檻を閉め、市長がすぐにライオンに噛み千切られることを想像してほくそ笑んだ。

ライオンは市長を目にしたとたん、大きく口を開き、鋭い歯を見せて威嚇を始めた。そして今にも飛び掛からんと前足を伸ばして猫のように一旦体を沈めた。しかし、ヘルマン・グリン市長は、今にも襲い掛かからんとするライオンを前にしてすぐにコートを左腕に巻いた。ヘルマンは自身のフードをつかむと、その中に持っていた剣を抜いた。ライオンが飛び掛かってくるのを待たず、ヘルマンはマントを巻いた左手をライオンの喉の奥に押し込み、その隙に引き抜いた剣でライオンの心臓を一刺しに突き刺した。

ライオンが息絶えたことを確認すると市長は檻を出て、祝宴には戻らず、そのまま家に戻った。市長は自身の手の者を祝宴の場所に送ると、二人のカノンを捕らえさせ、大聖堂に隣接するカノンの家の門に二人の首を吊るし晒しものにした。(一説には、カノンを絞首刑にしたのは市長ではなく、翌日ケルンを訪れてこの話を聞いたルドルフ大帝であったとも。ルドルフ大帝は、1273年10月24日、エンゲルベルク大司教によってドイツ王として戴冠させた。)

この市長の勇気を記念して、1573年にケルン市は、企みに失敗した大司教・律宗司祭と、そしてライオンを現わした石像を作り、市庁舎の柱状のアーチの上に装飾品として設置した。

市長ヘルマン・グリンは架空の人物だが、1271年から72年まで市長を務めた貴族出身のリッチウィン・グリン(Richwin Gryn)という人物は実在していたらしい。そして、ケルン大司教のエンゲルベルト2世は実在の司教だ。ハインスベルク(Heinsberg)とファルケンブルグ(Valkenburg)の伯爵であったディートリッヒ1世の末息子として生まれた。1261年にケルン大司教に選出されている。彼は貴族と戦うことによってケルンに対する大司教の力を強化しよう試みた。ケルンの貴族との対立により1263年には捕らえられ、20日間投獄されている。

エンゲルベルトが捕らえられたニデッゲン城
(Source:burgenarchiev.de)

1268年には都市から追放されたことから、ボンに移り、そこに住居を構えている。1267年10月17日のツュルピッヒの戦い(Schlacht bei Zülpich)で敗北した後、エンゲルベルトは、ケルンと同盟を結んでいたウィルヘルム・フォン・ユリッヒ伯爵(Wilhelm von Jülich)のニデッゲン城(Burg Nideggen)に1271年4月16日まで投獄された。

この伝説は、ケルン大司教エンゲルベルト2世の親友であるヘルマン・フォン・ヴィティンホーフェン(Hermann von Vitinghoven)が1262年6月8日に市庁舎の前に市民を集め、大司教が市長を任命したい旨を告げた。大司教は市民から食糧の提供とさらなる税金を要求した。これに憤慨した市民は武器を取り、大司教と戦った。ここでいう市民とは、有力市民の代表としての貴族のことであり、結局はケルン大司教と貴族たちによるケルン市の覇権を巡る争いであった。

ライオンと市長の戦いは、エンゲルベルト2世大司教の時代に沸点に達した貴族と大司教の対立の象徴であったと考えられる。エンゲルベルト大司教が紋章にライオンを使用していた為、「ライオンと戦う」というメタファーに繋がった。トラヤヌス皇帝によってケルンに定住させられたローマの上院貴族に属していた一族にグリン家という名前があった。またケルンには司祭の門と呼ばれる場所にヘラクレスとライオンの戦いを描いたローマ時代の彫刻があり、こういったことが伝説の起源となったと考えられる。

しかしこの時代、ケルン大司教とケルン市民の対立が激化していたのは歴史的事実であり、ケルン大司教位がエンゲルベルト2世から、ジークフリード・フォン・ヴェスターブルク(Siegfried von Westerburg)へと変わり、ケルン大司教とケルン市民の対立はさらに激化。1288年、《ウォリンゲンの戦い》として軍事衝突に発展する。

この戦いの後、ケルン大司教による市の支配は事実上廃止された。エンゲルベルト大司教はケルンではなくボンの大聖堂で休息の場所を見つけた。

参考:

sagen.at, “Herr Gryn und der Löwe”, https://www.sagen.at/texte/sagen/deutschland/nordrhein_westfalen/Herr_Gryn.html

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