偽皇帝現る

ヴェッツラー

1285年夏:ヴェッツラーに混乱が走った。皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルクは、帝国都市の門前に野営を設置していた。ルドルフは怒りのまなざしで町を見つめ、このまま町を包囲して破壊すると脅した。ヴェッツラーは破滅の危機に瀕していた。

この状況の原因になったのは、町に滞在していた「皇帝フリードリッヒ2世」の存在であった。エルサレムを無血開城し、30年以上前に死亡したとされるシュタウフェン朝最後の皇帝フリードリッヒ2世である。
ライン川下流地域に突如として現れた「フリードリッヒ2世」が一体どこから来たのかはわかっていない。本名は低地ドイツ地方の名前でティレ・クロップ(Tile Kolup)、高地ドイツ語ではディートリッヒ・ホルツシュー(Dietrich Holzschuh)という名前であったという。その出自については、当時、誰も知っているものがいなかった。
1283年頃、ケルンで「皇帝フリードリヒ2世」を名乗る男が現れた。当然、そのような虚言を信じる者など誰もいなかった。ケルン市は直ちに偽フリードリヒを逮捕し、投獄した。しかし投獄された後でさえ、男は自身の主張を変えず、「皇帝フリードリッヒ2世」であると主張するばかりである。この男の度を越した傲慢な主張はケルン市民の注目を集める。ケルン市民はこの男をマーケット広場に連れ出し、偽の王冠を被らされ嘲笑の的になった。さんざんに馬鹿にして笑いものにした後、男はケルンから追い出された。

ケルンを追い出された男は隣の町のノイスへと向かった。するとノイスでは、すぐに市民からの友好的に歓迎され、物質的な支援を得ることができた。ここから「偽フリードリヒ」のサクセスストーリーが始まる。「皇帝存命」のニュースは急速に広まり、戻ってきた皇帝を見るため、多くの人がノイスに集まってきた。偽のフリードリヒはその見た目が一定の説得力を持っていたと言われる。男はノイスに宮廷を得て、さまざまな諸侯に手紙を送り、自身の地盤を固めるべく活動を開始する。ロンバルディアの諸都市は、ノイスに大使を送り、そこで宮廷を開いている「皇帝」の正体を見極めようとした。
しかし、この騒動を嫌う人物もいた。ケルン大司教ジークフリート・フォン・ウェスターブルク(Siegfried von Westerburg)である。1285年5月、ケルン大司教はノイスに現れ、「皇帝フリードリヒ2世」を引き渡すよう要求した。ケルン大司教の登場に、偽フリードリヒはノイスから逃げ出し、フランクフルト・アム・マインへ向けて南へと逃亡した。男が意図したのは、ドイツ王選出の場であるフランクフルトにおいて、彼に対して諸侯が皇帝としてのお墨付きを与えることだった。「本物のフリードリヒ2世」も、1212年の選挙で王に選ばれている。しかし、亡くなった皇帝と自身とを結びつける、男の計画は失敗する。諸侯による会議は行われなかった。

偽フリードリッヒは今度はヴェッツラーに現れる。こうして、ヴェッツラーは、フランクフルト・アム・マイン、フリードベルク(Friedberg)、ゲルンハウゼン(Gelnhausen)など、その周辺都市と皇帝ルドルフ・フォン・ハプスブルク間の紛争の震源地となったのだった。これはルドフル帝が計画していた税制に、これらの諸都市が反対していることが原因であった。

この緊迫した状況が続けば、自身の支配に対する脅威に発展する可能性があった為、ルドルフは「偽フレデリック」を巡る騒動に終止符を打つ決意を行った。怒り心頭のルドルフはヴェッツラーを取り囲み、「皇帝」の引き渡しを要求。しかし、「フリードリッヒ2世」は、ヴェッツラー市民、特に下層階級から絶大な支持を得ていた。一方、市議会は市が包囲されることを恐れて、偽フリードリヒをできるだけ早くルドルフ王に引き渡したいと考えていたた。加えて、課税をめぐる紛争についても、皇帝と合意に達しており、評議会側は再び皇帝と争いの火種を抱えたくなかった。そのため、1285年の夏、帝国都市ウェッツラー評議会メンバーと市民の間で争いが発生した。

結局、市議会側が勝利し、偽フリードリッヒはルドルフ皇帝に引き渡されることとなった。1285年7月7日、引き渡し後、「偽皇帝」はヴェッツラーの城門の外で火刑に処せられた。この処刑形態は、身分を偽った者と異端者に用いられていた。偽フリードリヒの場合、亡き皇帝への冒涜でもあり、その意味では精神的および世俗的の両面において有罪であった。

しかし、この偽フリードリヒがかなりの期間、かなりの支持者を獲得できたのは何故だろうか?まず第一に、フリードリッヒ2世の生涯が死後の伝説の形成に役立ったという側面がある。

フリードリッヒ2世が遠いプーリアで亡くなったことは、あらゆる種類の憶測や疑念を生んだ。フリードリッヒ2世の政敵は、皇帝が死んだという誤った噂を広めることも多かったという事実もある。

敵対していた教皇も、フリードリッヒ2世を悪魔または反キリストとして繰り返し非難し、プロパガンダを行った。その為、教皇関係者にとっては、フリードリッヒ2世は生前から疑わしい存在であると見られていた。

さらに、この偽のフリードリヒが、政治危機の時に現れたことも特筆するべきだろう。

フリードリヒ2世の死と、それに続くホーエンシュタウフェン朝の終焉に続いて、複数の諸侯が皇帝の名乗りを上げる政情不安の時代、いわゆる大空位時代が到来した。この激動の時代に、特に都市部において社会的緊張が高まり、13世紀後半には職人や庶民の間で蜂起が増加していた。そして皇帝不在の状況下において、当面の間、状況の持続的な解決は望めなかった。庶民の間で広がった絶望感は多くの人々の間に終末論的な不安と、同時に救世主の出現に対する希望を生み出していた。こういった社会状況が、フリードリッヒ2世の復活と再来を人々が熱望する下地を形成していた。

つまり、偽皇帝は、皇帝フリードリヒ2世が実は死んでおらず、どこかで生きているという人々の希望、そしていつか救世主が現れ、この混乱の時代を平定してくれるに違いないという切実な願いという、二重の希望に合致したのであろう。

亡くなった皇帝を詐称したのはティレ・クロップだけではなかった。早くも1250年代には、ヨハネス・フォン・コクレリアという物乞いがシチリア島に現れ、自身がフリードリヒ皇帝であると主張している。1284年7月にも、ハインリッヒ何某がアルザスを通過し、我こそがフリードリッヒ2世であると主張している。死後に偽物が現れたのは、フリードリッヒ2世だけではなかった。

コンラート3世の治世(1127-1135)の初期には、彼の亡くなった前任者であるハインリヒ5世(1106-1125)が現れたと言われている。

1270年頃、偽のコンラディン(Konradin)がオーバーライン地方に現れます。 そして1225年頃、偽ボールドウィン(Balduin)公爵が公爵領の領有を主張したときには、フランドルで内戦が勃発している。

こういったニセ皇帝を信奉したのは庶民だけでなく、一部諸侯も含まれた。ニセ皇帝を支持することで、彼らの政治的利益を最大化できると判断した場合、彼らは躊躇なく、偽者を支持したのだった。事実、ケルン大司教との確執があったエッセン女子修道院長は、自身に特定の権利を保証すると言ったフリードリッヒを支持している。

ルドルフ・フォン・ハプスブルクに対抗する勢力もまた、偽フリードリヒの周りに集まった。 偽フリードリッヒはシチリア島にも現れたが、彼の登場は、市民の政治的希望に関連していた。偽造された文書によって、島の諸都市や貴族はマンフレーディ王の支配に反対するよう扇動されたのだった。

当然、マンフレッドは偽フリードリッヒを即座に捕らえ処刑している。 偽ボールドウィンは、フランドルのジョアン伯爵夫人(Johanna von Flandern)の支配に反抗した人々の結晶ということができる。


参考:

curiositas-mittelalter.blogspot.com, “TILE KOLUP – DER FALSCHE FRIEDRICH”, MAX EMANUEL FRICK, https://curiositas-mittelalter.blogspot.com/2016/05/tile-kolup-der-falsche-friedrich.html

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