ユーリッヒ伯ヴィルヘルム2世が築いた居城
アーヘンから東に35キロ、ニデッゲンという町にある長方形の城。ユーリッヒ伯ヴィルヘルム2世が、1177年から1191年にかけて建設したニデッゲン城(Burg Nideggen)である。城は、15世紀までユーリッヒ伯爵の居城であった。しかし、現在、城は建設当時の形は留めておらず、天守閣の部分が現存している最も古い部分である。壁の厚さは最大2メートルあり、中世の城で最も堅牢であったため、居住用および防御用の塔として機能した。建設主はヴィルヘルム2世・フォン・ユーリッヒ伯爵で、彼は娘のアルベラディス(Alveradis)の結婚の持参金として、アダルベルト・フォン・モルバッハ(Adalbert von Molbach)から、城の建設のためにネルヴェニヒ(Nörvenich)とモルバッハ(Molbach)の森林地帯を受け取った。
中世では、城は主に自国の安全を確保するためのものであり、築城の場所は主に戦略的側面によって決定された。そして、ユーリッヒ伯爵ヴィルヘルム2世が建設に選んだ場所は、まさに要塞に最適な場所であった。そのそびえ立つ岩は攻略が難しく、同時に、近づいてくる敵を早期に発見できたからである。
この城は、13世紀から16世紀初頭にかけて文化的、構造的に全盛期を迎えた。現在でもハイデルベルクやマールブルクなどと肩を並べる中世後期の居城の代表例の一つである。13世紀、ケルン大司教はライン川下流域の覇権をめぐり、近隣諸国と戦った。 1288年のウォリンゲンの戦いによって、ケルン大司教区の支配は終わり、ユーリッヒ伯爵はこの恩恵を受けた。
城は1340年頃に拡張され、ヴィルヘルム5世伯爵 (1356年からヴィルヘルム1世公爵) は、ライン地方で最も重要なゴシック様式のホールを建設した。そのサイズ (縦61m、横16m) のため、アーヘンのカイザーザール(Kaisersaal)やケルンのギュルツェニヒ(Gürzenich)に匹敵する大きさであった。
ユーリッヒ伯爵の時代、バイエルン公ルートヴィヒ (Herzog Ludwig von Bayern) やケルン大司教コンラート・フォン・ホッホシュターデン(Konrad von Hochstaden)、エンゲルベルト2世・フォン・ファルケンブルグ(Engelbert II. von Falkenburg)などの当時の著名な権力者がニデッゲン城に捕らわれていた。
ゲアハルト・フォン・ユーリッヒ伯爵(Gerhard von Jülich)はニデッゲンを特に好み、城の近くの集落の開発を非常に重視していたため、1313年のクリスマスにニデッゲンに市の権利を与えた。特権の手紙で、ユーリッヒ伯はまた、後継者にこの特権を尊重し、常に保持することを義務付けた。この間、ニデッゲンとその城は全盛期を迎えた。
16世紀、ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク家のヴィルヘルム5世富裕公はニッデゲン城の城主であったが、この頃、城は最初の破壊に見舞われている。 16世紀に実用化された新しい火器は、頑丈な建物に対しても強力であることを証明したのだった。
城はヘルダーラント継承戦争(Geldrischen-Erbfolgekrieg)の結果として、1542年に皇帝カール5世により破壊された。17世紀半ば、城は1678年の太陽王ルイ14世の攻撃の犠牲となり崩壊が進んだ。
その後、城は1878年の地震でも甚大な被害を受けたが、1902年から再建され、1922年からは地元の歴史博物館として使用されている。第二次世界大戦で再び破壊された後、城は1950年代初頭に再び復元された。1979年以来、天守閣には城博物館がオープンし、訪問者は騎士や中世の生活、封建時代に浸ることができる。
ニッデゲン城に伝わる伝説《舞踏会のふたりの騎士》
ニッデゲン城には中世の城に相応しい次のようなおどろおどろしい伝説が伝わっている。
ある日、ニッデゲン城で盛大な仮面舞踏会が開かれた。フルートとヴァイオリンが演奏され、舞踏会の熱気が最高潮になった頃、フードを深く被った2人の騎士が人気の少ない道を通って城にやってきた。舞踏会の会場に入る前に、彼らは顔にマスクを付けた。
ほとんど誰にも気づかれずに、2人の騎士はダンスを楽しむ招待客に紛れこんだ。皆が人生の喜びを楽しんでいるようだった。ダンスを楽しむ婦人のひとりが騎士の一人に尋ねた:「あなたの手はなんて白く柔らかいのでしょう!」婦人がマスクを外すと、そこには若くて美しい2人の騎士が見えた。舞踏会の会場には絶え間なく音楽が流れ、招待客はダンスを楽しんだ。
二人の不気味な騎士は、まだマスクをつけたままで立っていた。舞踏会のホステスであるユーリッヒ公爵夫人はさすがに不快に思い、「騎士の皆さん、まだ仮面を取りたくないのですか?そろそろ仮面を取る時間ですよ。」招待客のひとりの女性がふいに騎士の 1 人のマスクをはがした。女性はその瞬間恐怖でよろめいて、柱にしがみついた。仮面から現れた騎士の顔は青ざめ、天然痘の傷跡に覆われていた。男は歯のない口で、かすれた声で叫んだ:「私の名前は《ペスト》だ!」もう一人の騎士は自分で仮面を剥ぎ取り、青白い骨をむき出しにし、不気味な声で叫んだ。「私の名前は《死》だ!」
今、舞踏会の会場は凍り付くような恐怖に包まれた。誰もがホールの出口へと向かった。剣を探す騎士はおらず、女性を助けようとするものもいなかった。つい先ほどまで楽しそうに踊っていた招待客は、いまや互いを出し抜いて我先にと出口へ駆けつけた。落ちたろうそくが木製の壁に火をつけた。死はアイフェルへとやってきたのだ。ニッデゲンやユーリッヒ地方では、騎士や貴婦人、農民の中に、「黒死病」の犠牲になったものが大勢いた。
この伝説の舞台は、このニデッゲン城のパラスである。パラスは、城主のダイニングルーム、会議室、作業室を備えた、中世の代表的な居住空間を言う。《騎士の間》は、騎士の馬上試合(トーナメント)の後の祝賀会の舞台ともなった。ニッデゲン城では多くの祝賀会が行われ、歴史に残っている。この伝説は、時代的にもおそらく1356年にニデッゲン城のパラスで行われた大規模な祝祭が舞台となっている。この祝祭で、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール4世が、ヴィルヘルム5世伯爵を公爵に昇格させている。それ以来、ヴィルヘルム5世伯爵はヴィルヘルム1世公爵と呼ばれるようになった。ユーリッヒ家にとってはこれ以上にない名誉が与えられた特別な日であったが、1356年は全欧州でペストが流行していた時期であり、華やかな仮面舞踏との対比で、《死》と《ペスト》が招かれざる《客》として描かれている。
参考:
kreis-duren.de, “Burg Nideggen”, https://www.kreis-dueren.de/microsite/burgenmuseum/burg/index.php#geschichte
abenden.com、”Die unheimlichen Ritter”, https://www.abenden.com/abendener-sagen/
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