【ドイツの歴史】ゲーテ、シラー、ヘルダー、ノヴァーリス、ヘーゲル、マルクス・・・
イエーナ(Jena)は、中世の頃、ワインと農耕で栄え、1558年に大学が開かれてからは学問の町となった。大学の設置は神聖ローマ皇帝カール5世に捕虜となっていたザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大侯)によって1547年に計画され、皇帝フェルディナント1世に憲章を与えられた彼の3人の息子によって計画が実行に移され、1558年2月2日に大学が設立された。
ドイツのテューリンゲン州(チューリンゲン州)にある小さな町で、人口も10万人ほどしかいない。イエナと表記されることもある。 ワイマールから列車で15分ほどの距離にある。 近郊のワイマールやエアフルトに比べれば地味な印象だが、 フリードリヒ・シラー大学イェーナ(通称:イェーナ大学)を擁する歴史の古い大学町であることや、精密機械メイカーのカール・ツァイスがここで創業したこと、1806年にナポレオン戦争の戦いのひとつであるイエナ・アウエルシュタットの戦い(プロイセン軍対フランス軍)が近郊のコスペダで行われたことなどで知られている。
町の主だった人々は宗教改革期以降、ルター派に改宗した。実際にマルティン・ルター自身がイェーナに滞在して説教を行ったという記録が残されている。現在も福音主義教会(ルター派)が主流を占める。イェーナは中部ドイツ福音主義教会ゲーラ=ヴァイマル教区に属している。19世紀以降ふたたび少数のローマ・カトリック信者が集まり、イェーナ最古の教会である聖ヨハン・バプティスト教会を再建して使用している。
1989年の東西ドイツ統一後、第二次世界大戦の空襲によって破壊されていた施設や家屋の改修が進められ、街並みは美しさを増しつつある。
大学の名前の由来となっている フリードリヒ・シラー 以外にも、イエーナに住んだことのある有名人は多い。ロマン主義作家のルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck)も1799年から1800年にかけてイェーナに滞在している。哲学者のヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder)、『青い花』で知られるドイツ・ロマン主義の詩人ノヴァーリス(Novalis)、『ヒュペーリオン』で知られる作家、ドイツヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin)などもイエーナとつながりが深い。
哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte )は、イエーナ大学で講師を務めており、自身の講義のなかで「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」という言葉を残している。イエーナ滞在中に無神論論争を引き起こしたことで、無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去ってベルリンへ移った。ベルリン大学が開講されると、その初代哲学教授に就任。フィヒテの作品で最も知られている 『ドイツ国民に告ぐ』 は、この頃、ナポレオン占領下のベルリンで一般市民に対して行った講演であった。
シェイクスピアの翻訳で知られる文学者のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(August Wilhelm von Schlegel)もイエーナにゆかりの深い人物である。シュレーゲルはゲッティンゲン大学を卒業した後、活動の場を求めてイェーナへ来ており、この頃は、フリードリヒ・シラーやフィヒテなどがイエーナ大学で教鞭を取っていた時代であった。1796年にカロリーネという女性と結婚し、その後、イエーナ大学の教授に就いている。この後、ルートヴィヒ・ティークの娘、ドローテアとヴォルフ・ハインリヒ・グラーフ・フォン・バウディシンらの監督の下、シェイクスピアの翻訳に取り組んだのだった。
ところが、いつしか シュレーゲル の妻、 カロリーネ はイエーナ大学で教鞭をとっていたフリードリヒ・シェリングと恋愛関係になったのだった。妻を寝取られたシュレーゲルは、カロリーネと離婚。シェリングとカロリーネはイエーナを去り、引っ越した先のヴュルツブルクで結婚している。
そのシェリングと交友があったのが、ドイツ観念論を代表する哲学者のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)だ。1801年、ヘーゲルはテュービンゲン大学で親密な交友関係を築いていったシェリングが大学教授を務めていたイエーナ大学の講師となり、シェリングと共同研究をおこなってカントとフィヒテを批判する論文を執筆した。ところが、次第に独自の立場を形成して1807年に『精神現象学』を刊行、シェリングを厳しく批判した。シェリングとの友情はこれ以降途絶える。折しも、イエーナ会戦でプロイセン王国がナポレオンに敗北したためにイエーナ大学は閉鎖され、職を失うこととなった。ヘーゲルはフランス軍によるイエーナ占領のなか行進中のナポレオンを目撃、ナポレオンを「馬上の世界精神」と評している。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)は1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘している。しかし、1791年にシラーが『群盗(Räuber)』を発表すると、ゲーテはシラーの作品を評価しなかった。シラーに対して意識的に距離を置くようにしていたが、イタリア旅行から帰ってみると、シラーの名声が上がっていたことで、ゲーテもシラーの作品を再評価したと言われている。シラーのほうもゲーテの冷たい態度を感じ、ゲーテを『冷酷なエゴイスト(gefühlskalten Egoisten)』と呼んだこともあった。だがその後、ゲーテに対するシラーの評価と感情はすぐに変化してゆき、以後急速に距離を縮めていった。
1806年、イエーナ・アウエルシュタットの戦いでナポレオン軍が勝利した2年後の1808年、ゲーテはエアフルトで、ナポレオンと歴史的対面を果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と言って喜んだという。
ドイツの動物学者であり、哲学者であるエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)は、ヴュルツブルクにいた頃からの友人で、イエーナ大学の教授に新しく就任していたカール・ゲーゲンバウル(Carl Gegenbaur)によってイエーナに招待されたのだった。こうして、ヘッケルは、イエーナ大学の300周年に、自身の学術的キャリアへの見通しを得ることができたのだった。ヘッケルはイエーナ大学の准教授になり、ダーウィンの進化論について講義を行っている。1876年以降はイエーナ大学の学長を務め、進化論に関する新しい科学的発見を広めるため、ドイツ全土で講義ツアーを実施している。1882年から1883年にかけて、イエーナ大学に動物学研究所が建設されているが、同じ頃、エルンスト・ヘッケルの家もベルク通り(Berggasse )7番に建設されている。イエーナ大学に常に敬意をもっていたヘッケルは、1885年、大学に300,000ライヒスマルクを寄付している。
カール・マルクスはイエーナ大学で博士号を取得している。息子が法律職に就くことを希望していた父ハインリヒが1838年に病死したことで、 カール・マルクス は法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。1840年にキリスト教と正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、言論統制が強化された。マルクスはベルリン大学で学士号、修士号を取得していたが、ベルリン大学の保守的な空気を嫌い、同大学に論文を提出することを避け、イエーナ大学に論文を提出し、同大学から哲学博士号を授与されている。
こうしてイエーナにゆかりのある人物を上げると、錚々たるメンバーである。一時期、このテューリンゲンの小さな学問都市は、間違いなくドイツの学問と精神世界の中心にあったと言える。
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