ディンケルスビュール歴史館

ディンケルスビュール

現在のディンケルスビュール歴史館(Dinkelsbühl Haus der Geschichite)の建物は、もともと旧市庁舎であった。1550年から旧市庁舎として使用されていたが、1855年に議会はバロック様式の新市庁舎へと移転。旧市庁舎であった建物は博物館として再利用されることとなった。

この博物館では町の800年以上の歴史の痕跡を示している。 ディンケルスビュールが中世の重要な帝国都市へと発展してから、三十年戦争における衰退を経て、ナポレオン戦争によって帝国支配が終焉するまでを様々な展示物によって説明している。また、古くからの繊維の町としてのディンケルスビュールの重要性とともに、ウェストファリア条約以降のカトリックとプロテスタントの共存についても知ることができる。

見どころは、中世の城塞都市としてのディンケルスビュールが、外部の敵対勢力や、市内の火災に対してどのような対応を行っていたかを示す数々の展示品である。まるで時間が止まったかのように中世の面影を色濃く残すこのディンケルスビュールならではの興味深い展示品の数々である。

そして博物館の内部を見学した後は、その中庭から地下室へと入っていける。そこではこの町で行われた陰惨な魔女狩りの歴史を垣間見ることができる。

14、15世紀頃の鍵。皇帝訪問時などに鍵を渡すという行為は、従属を表した。中世では、鍵は支配のシンボルであり、鍵を渡す行為は、その家、もしくは町全体を引き渡すことを意味した。

ディンケルスビュール市の紋章を記した紋章版、17世紀。砂岩。この紋章が刻まれた板は、今日ディンケルスビュール歴史館となっている古い市庁舎の入り口に1920年まで掲げられていた。

(上)火事警告用のラッパは、ネルトリンゲン門で19世紀に使われていたもの。中央の筒は、18世紀の望遠鏡。

(下)4つの容器は、18世紀と19世紀の火消しバケツ。火消し用のバケツを所有することは、市民の義務であった。火事が起こった際には、女性も子供も、僧侶も学生も、みな水の入ったバケツを持って火事場にかけつける必要があった。火消し用のバケツには、市のものには市の紋章、救済院のものにはその紋章など印がつけられていた。

ゲオルグ教会の塔は、16世紀の中頃から火の見張り番が常駐する場所であった。見張り番は夏だけでなく冬の間も四六時中、東西南北が見渡せる塔の最高階にある小部屋に勤務していた。見張り番が火事を発見した場合は、まず最大の鐘を鳴らす。その後、昼間は赤い布で、夜間は赤い提灯で火事のある方角を示した。これにより消防団に火事が発生している市の区画を示した。市庁舎が電気式のサイレンを導入した1919年になって初めて、この職業は廃止された。1917年7月、ムッケン噴水(Muckenbrünnlein)で発生した火事が、塔から報告された最後の火事となった。

14世紀にはすでに、ゼグリンガー門(Segringer Tor)の前に掘が作られ、水が張られていた。火事の際には、堰が明けられ、地下水が町に流された。これが出来たのは、城塞都市の内側に住んでいる住民だけであった。といのも、火災の際は、まず町を囲む城門が閉じられたからだ。

ディンケルスビュールにふたつあった兵器庫には、火事の時に使う消火道具と一緒に、武器なども保管されていた。エルザス通り9番(Elsassergasse 9)には、貴族の兵器庫があり、一時はギルドの兵器庫もあった。そして、市民は基本的な武器の一式を家に保管していた。城塞の塔には、銃器も保管されていた。武器のトレーニングも射撃団によって行われた。1598年の銃士隊の規則には、定期的なトレーニングセッションが規定されていた。市民は自身のマスケット銃を持って、参加することが義務付けられていた。ディンケルスビュールの農民も武装して定期的に演習に参加することが義務付けられていた。

17世紀の拷問椅子。この椅子は、1930年にローテンブルクのゲートタワー付近で発見された。1656年の春に制作されたとみられるこの椅子は、魔女裁判で使用されたものと考えられる。死刑執行人は死刑と拷問を行っており、執行人とその家族は「不誠実な人々」とみなされ、他の市民が接触しようとはしなかった。ディンケルスビュールで行われていた拷問のひとつは、拷問する人を吊るし上げる方法であった。痛みを与えることで、罪を自白させていたのだった。1420年から1753年までの間に、ディンケルスビュールで96人の死刑が執行されたことが知られている。裁判官は、泥棒を絞首刑にし、殺人者や強盗、放火犯には剣による死刑を宣告した。姦淫を行った女性は溺死させられ、魔女と判断された者は火刑に処せられた。

姦淫の宣告を受けた女性は、この器具を首にはめられた。加えて彼女は「恥の王冠」をかぶされ、姦淫の目印を付けられた。娼館以外で売春を行った女性は町から追われたのだった。

聖ゲオルク教会の塔に取り付けられていた排水パイプ。この排水パイプは1950年に取り除かれ、新しいものに置き換えられた。

博物館の地下室は、17世紀、魔女狩りのプロセスとして、拷問、処刑の様子が再現されている。上の写真は、吊るし上げられ、魔女の自白が強要された場所である。ディンケルスビュールでは、1649 年から 1709 年にかけて魔女狩りが行われた記録が残っている。1611年に、3人の女性が魔術の罪で告発され、1613年には2人の女性に死刑判決が下された。1645年にはプロテスタントの助産師が処刑され、1655年から1656年にかけては、さらに8人の女性が告発されている。プロテスタントの助産師は、最初カトリック教徒になることを強制されたが、その後有罪判決を受け、剣で処刑された後、火刑に処されている。

「魔女」が監禁された地下の牢獄。地下にはこのような牢獄が3室あった。

魔女が火刑に処せられた小部屋。訪問者がこの木製の扉に近付くと、センサーが探知して、自動的に電気が付き、まきに火が付けられたかのような演出となっている。

参考:

“Dinkelsbühl Namen der Opfer der Hexenprozesse/ Hexenverfolgung”, http://www.anton-praetorius.de/downloads/namenslisten/Dinkelsbuehl_Namen_der_Opfer_Hexenprozesse.pdf

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