富豪たちの町 | ヴィースバーデン

ヴィースバーデン

【ドイツ観光】ドストエフスキーの小説《賭博者》の舞台とも言われるカジノと温泉の町

ヴィースバーデンは、フランクフルトの40キロ西に位置する、ライン河畔にあるヘッセン州の首都だ。ライン川対岸にあるマインツへは、車で20分ほどで到着する。ヴィースバーデンにはドイツで最大の米軍基地があり、3000人の兵士を含む、2万人のアメリカ人居住者が生活している。わずか28万人の人口のヴィースバーデンにとっては、かなり大きなコミュニティーだ。そのため、町を歩いていても英語を耳にすることが多い。

ヴィースバーデンは、ここに住むマティアカーン(Mattiakern)にちなんで、ローマ人から《アクアエ・マティアコルム》(Aquae Mattiacorum)と呼ばれていた。 マティアカーン とは、ゲルマンの一部族であり、そのメンバーはおそらく早い時期にケルト人と混血が進んでいたと思われる。都市部の定住の跡は、紀元前3000年頃の新石器時代に遡ると証明されている。ローマ人が最初に定住を始めたのは、マインツであったが、ヴィースバーデンで温泉が発見されたことから、温泉好きなローマ人がこの地にも定住を始めた。その後少し経って、温泉の拡張に伴い、ローマの市民集落の開発が開始された。この時代、ローマ人はヴィースバーデンの5つの源泉のすべてを発見している。

約370年頃、集落の周りには壁が建てられた。このいわゆる「異教の壁」(Heidenmauer)の遺構は今日も保存されている。

「異教の壁」(Heidenmauer)の遺構

4世紀の終わりに、アレマン人はマインツの橋頭堡としてヴィースバーデンを引き継ぎ、約1世紀後にフランクによる入植が始まった。すでにメロヴィング朝時代には、828/30年に、宮廷の場所として初めて「ウィサバダ」(Wisabada)と呼ばれた場所が記録に残っている。ヴィースバーデンは中世後期からナッサウ伯に属している。13世紀には、1242年にマインツの大司教によって破壊されるまで、一時的に帝国都市となった。しかし、もちろんライン川対岸のマインツと比べると、この当時のヴィースバーデンは小さな田舎町だった。1547年と1561年に、火事で中世の建造物のほぼ全体が破壊された。三十年戦争も壊滅的な影響を及ぼした。しかし、当時は約730人しか住んでいなかったこの都市は1690年から拡張され、再強化された。 1744年、カール・フォン・ナッサウ・ユージンゲン(Karl von Nassau-Usingen)は彼の住居をビーブリッヒ城(Biebricher Schloss)へと移した。ヴィースバーデンは、後にナッサウ公国(1806年から1866年)の公国政府の首都となった。

カール・フォン・ナッサウ・ユージンゲン

19世紀に、この都市は国際的な健康リゾートに発展。 1866年のプロイセンによるナッサウ併合により、ヴィースバーデンはさらに拡大成長した。ヴィースバーデンは、政府の首都となり、年金や資産の利子で生活する役員、上級公務員、賃貸人に人気のある退職後の居住地となった。この頃から、豪華な住宅、宮殿のようなホテル、エレガントな別荘が街並みを形作っていった。総人口は急速に増加し、1905年には人口10万人を超えた。今でもヴィースバーデンには、当時の富裕層によって建設された様々な建築スタイルで建てられた豪華なヴィラが残っている。この当時は、1748年にイタリア、ポンペイで遺跡が発見された影響から、ポンペイ様式の建物が人気を博しており、この町のヴィラもポンペイ風の外観を持っているものも少なくない。

これらのヴィラには、所有者に関する様々な話が伝わっている。ヴィースバーデンのツーリスト・インフォメーションでツアーガイドを申し込むと、ガイドによってはヴィラの歴史を教えてくれる。またヴィースバーデン市の公式ページにもヴィラに関する情報が記載されている。数あるヴィラの中でも得に有名なのは、シェーンラインーパプスト(Villa Söhnlein-Pabst)と呼ばれるヴィラだ。外観がワシントンD.C.のホワイトハウスにそっくりのヴィラだ。

これはスパークリングワインメーカーのシェーンライン(Söhnlein)家のフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シェーンライン(Friedrich Wilhelm Söhnlein)が結婚したアメリカ人妻、エマ・パプスト(Emma Pabst)の為に建設された。エマは、アメリカの有名なビール醸造メーカーの令嬢であったが、彼女がドイツでホームシックにかからないように、アメリカを代表する建築物の外観をまねたとされる。スイスの建築家オットー・ヴィルヘルム・プレーグハルト(Otto Wilhelm Pfleghard)とマックス・ヘーフェリ(Max Haefeli)は、1903年から1906年の間に新たな新古典主義でヴィラを建設。1938年にフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シェーンラインが亡くなって以来、別荘の所有者は転々とした。1940年には警察が使用し、4年後には「第三帝国」が購入し、終戦後は1995年まで米軍の管理下へと入った。

シェーンライン社のスパークリングワイン

1807年から1810年にかけて、この町に最初のクアハウスが建設されたのは、何よりもギャンブルの為だった。 19世紀の間、ヴィースバーデンは急速に重要な温泉街へと発展したため、増大する需要を満たすために新しい温泉施設が必要になった。ミュンヘン司法裁判所の建設とベルリン国会議事堂の設計で有名になったフリードリヒ・フォン・ティエルシュ(Friedrich von Thiersch)は、1902年に新しい建物の建設を依頼された。

ヴィースバーデンのクアハウス(Source:www1.wiesbaden.de)

1907年、同じ場所に同じスタイルで建てられた壮大なクアハウスが、カイザーヴィルヘルム2世の前でオープンした。黄色い大理石のワインサロン、フレスコ画、貝殻、小石のある貝殻ホールなどの部屋がある。大きなコンサートホールは、ナッソー大理石の高い柱とマホガニーで覆われた壁で飾られおり、天井全体が青と金色で飾られていた。

クアハウス(Source:www1.wiesbaden.de)

カジノ内部への入場は、以前は厳格なドレスコードが存在しており、上着やネクタイを着用していない客は、入口でレンタルするというスタイルであった。時代とともに、そういったドレスコードは廃止され、現在はよほど場にそぐわないスポーティーないでたちでなければ、フォーマルな服装でなくても入場は可能だ。

カジノ内部 (Source:casinotest.de)

第一次世界大戦、その後1930年まで続くフランスとイギリスの占領、そしてその後に起こる大恐慌は、都市の財政力を大幅に弱めた。 ヴィースバーデンは「世界の温泉街」としての以前の重要性を失ってしまった。1933年以来、ヴィースバーデンにはナチス政権の事務所が数多くあり、ユダヤ人とシンティもここから強制送還された。政権に反対した、かなりの人数に及ぶヴィースバーデン市民が迫害を受けることになった。1945年、連合国が他の主要なヘッセンの都市とは異なり、大きな爆撃を受けなかったので、ヴィースバーデンは戦後ヘッセン州の州都となった。多くの出版社、保険会社、映画業界の企業がこの地を選んだ。さらに、ヴィースバーデンはスパとコングレスの街として優れた役割を果たしている。

今日、町にはネロベルクの麓、スパ施設に沿って、ヴィルヘルム時代の壮大な別荘が立ち並んでおり、このような景観を持つ町は、この国の他のどこにもない。古典主義の柱、ネオゴシック様式の塔などの建築物が、皇帝ヴィルヘルム2世のお気に入りの町がいかに裕福かを訪問者に誇示している。 20世紀初頭、ヴィースバーデンは億万長者が多く住む代表的な町となった。かつて市が台頭するきっかけとなったスパ施設は、その背景として存在感を示し続けている。市内で数少ないアールヌーボー様式の建物の1つである、新しく改装されたカイザー・フリードリッヒ・テルメ(Kaiser-Friedrich-Therme)は、今でも多くの訪問者を癒している。

カイザー・フリードリッヒ・テルメ (Source:immobilien-zeitung.de)

同じくスパ施設として有名で、ヴィースバーデンの永遠のライバルであるバーデンバーデンとは対照的に、ヴィースバーデンは今日、27万人の住民を抱える大都市に成長した。クアハウスのなかには、カジノもある。ヴィースバーデンでは、ルーレットで全国的に最も高い賭け金が可能だ。赤か黒に賭ける最も単純なゲームで、40,000ユーロまで賭けることができる。

ヴィースバーデンは、ドストエフスキー(Dostojewskis)の小説《賭博者》(Der Spieler)でルーレッテンブルクのモデルになるという疑わしい名誉をめぐって、バーデンバーデンと戦い続けている。カンディンスキーらとともに、ミュンヘンにおける芸術運動である《青騎士》にも参加したロシア系ドイツ人画家、アレクセイ・フォン・ジョーレンスキー(Alexej von Jawlensky)が人生の最後の20年間を過ごし、埋葬された場所でもある。この間、「20世紀のアイコン」とも呼ばれる、《キリストの頭》(Christusköpfe)は作成された。ヴィースバーデン博物館はヨーロッパで最大の公共のジョーレンスキーコレクションを誇っている。

ヴィースバーデンの地元の山、ネロベルクにあり、ロシア正教の礼拝堂のすぐ近くにある。この礼拝堂は、プロイセンによる併合前の君主であったアドルフ・フォン・ナッサウ公爵(Adolf von Nassau)が、出産時に亡くなったロシア皇帝の姪である妻の霊廟として建てた。

ネロベルク (Source:wikinger-reisen.de)

町のランドマークであるマルクト教会は、ヘッセン州議会のすぐ近くにあるネオゴシック様式のプロテスタント教会だ。マルクト教会という名称はここが以前は市のマーケットがあったことから名づけられた。1853年から1862年にかけて、カール・ボース(Carl Boos)によってシュロスプラッツに、ナッサウ公国の大聖堂として建てられ、当時、ナッサウ公国では最大のレンガ造りの建物だった。

ナッサウ家の城は、スペースが足りなかったため、城は近隣の家に追加され、比較的規模が小さかった。 1835年、ウィルヘルム・フォン・ナッサウ公爵は大公国の首長であるゲオルク・モーラー(Georg Moller)に建設計画を依頼したが、自身は1839年に亡くなり、城に移住することはなかった。代わりに、1841年に息子のアドルフが最初で、唯一の宮殿の住人となっている。 1866年にアドルフ公爵が亡命を迫られた後は、プロイセン王国はヴィルヘルム1世とヴィルヘルム2世の滞在のために、この宮殿を使用した。城の正面玄関上のバルコニーからは、目の前のマーケットの喧騒がうるさかったため、マーケットの場所が現在の場所へと移動させられている。1925年に、城は英国ライン駐在軍の本拠地となり、1930年にはプロイセン州庁舎となった。その中に博物館が設立された。第二次世界大戦での深刻な破壊された後、城は復元され、ヘッセン州議会の議事堂となっている。

かつてのローマ都市として、また神聖ローマ皇帝をも生んだヴィースバーデン・イトシュタイン・ヴァイルブルク(Nassau-Wiesbaden-Idstein‐Weilburg)のナッサウ公爵領としても栄えたヴィースバーデンだが、その後、保養施設とカジノで有名となり、とりわけドストエフスキーの小説で有名となった。豪華絢爛を誇ったかつての富豪たちの町も、かつてに比べれば、人口に占める富裕層の割合は減少しているが、これはこの町の人口増加に関連付けられる。ヘッセン州の州都ヴィースバーデンは、現在もスパへの訪問を中心とした長期滞在型の都市として、国内外から観光客が絶えることはない。

参考:

wiesbaden.de, “Stadtgeschichte kompakt”, https://www.wiesbaden.de/kultur/stadtgeschichte/kompakt/index.php

welt.de, “Kulisse ohne Kaiser”, Tobias Wiethoff, 02.02.2003, https://www.welt.de/print-wams/article120089/Kulisse-ohne-Kaiser.html

landesstelle-hamburg.de, “Dostojewskis Spielsucht”, Bert Kellermann, Jun 16, 2016, http://www.landesstelle-hamburg.de/2016/06/16/dostojewskis-spielsucht/

fr.de, “Dostojewskij auf der Spur”, NICOLE SCHMIDT, 13.03.2009, https://www.fr.de/rhein-main/dostojewskij-spur-11487739.html

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