1288年、デュッセルドルフの都市権獲得
デュッセルドルフの町を歩くと、いたるところで側転する子供の像を目にする。これは、ドイツ語でラートシュレーガー(Radschläger)という側転する子供の意匠だ。日本語に訳すると「側転小僧」とでもいったところか。この像は、1288年にデュッセルドルフが市に昇格したときに、それを喜んだ住民、特に子供たちが側転をして喜びを表したという話に由来する。また別の説では、デュッセルドルフを統治していたヨハン・ヴィルヘルムが結婚した際に、子供たちが馬車に付き従って側転を披露したとも言われている。
デュッセルドルフが市に昇格した際に子供たちが側転をしたという説は、今からおよそ500年前にベルク伯アドルフが敵対するケルン大司教を《ウォーリンゲンの戦い》で退けたことに由来する。現在でも、ベルギーやオランダにリンブルフという地名が残るが、かつてはリンブルフ公国という国が存在していた。
13世紀、リンブルフ公国の公爵であったヴァルラム5世は、男子の世継ぎを残さないまま亡くなってしまう。その為、娘のイルムガルドの夫であるゲルダーン伯ライナルド1世が後継者となったのだった。
ところが、イルムガルトが夫よりも先に他界すると、亡くなったヴァルラム5世の兄であるベルク伯アドルフ4世は、一度はライナルド1世の領地継承を承認したにも関わらず、この継承に異議を唱えたのだ。姪の夫であったから、渋々継承を認めてやったものの、姪が亡くなった今、血縁関係のないライナルドのリンブルク継承が面白くなくなったのだろう。突如、アドルフ4世もリンブルフ公国の継承権を主張する。
アドルフ4世と争うことになったライナルド1世は、オットー大帝以来の有力者、ケルン大司教ジークフリード・フォン・ヴェスターベルクに協力を仰ぐ。953年、オットー大帝はケルン大司教区とロートリンゲン公国の両方を自身の弟であるブルンに与えた。それ以来、ケルン大司教は基本的にケルン選帝侯領でドイツ王の世俗的な代表者となった。ケルン大司教は個々の地域を領地として自身の家臣に分け与えたのだった。12世紀、13世紀へと移ると、領土を与えられた家臣のなかに、ケルン大司教の権力から脱却しようと試みるものが現れた。この頃には、ドイツ王の権力も弱体化していたので、そういった状況を敏感に察し、各諸侯はこういった紛争で自軍の領土を広げる為に利用したのだった。ケルン大司教も諸侯による領土拡大を黙って見過ごすわけにはいかない。
対するアドルフ4世の方は、ブラバント公ヨハン1世と手を組んだのだった。ブラバント公ヨハン1世は、高い税収が見込め、経済が発展しているリンブルフ公国とムーズ川沿いの地域を中心に、支配地域を東に拡大しようしていたので、まさに渡りに船であった。
しかし、戦いが激化するにつれてアドルフ4世は勝ち目がないと見たのか、早々と継承権をヨハン1世に売り渡してしまう。当時はこのように相続権の売却は一般的であったという。相続権の買収を持ちかけられたヨハン1世にしても、リンブルフ公国は自身の領土と隣り合わせであったので、領土拡大を狙う機会として引き受けたのだった。こうしたヨハン1世による領土拡張への動きはケルン大司教の政策とは相いれるはずもなく、ヨハン1世とケルン大司教の間で紛争は継続する。
この戦争により、お互いの村に火をつけ、畑を荒らし、この地域の領民とりわけ農民にとっては大災難であった。そして1288年、事態は進展する。ヨハン1世がケルンの領土に侵入したのだ。ケルン大司教と組んでいたライナルド1世もリンブルフを自分のものにできないと悟り、相続権をルクセンブルク家のハインリッヒ4世に売却してしまう。つまり、この継承戦争の当事者であったはずのライナルド1世とアドルフ4世の両者は戦争から降りてしまったのである。このように一連の争いは、始まりこそリンブルフ公国の継承であったが、次第に当事者が変わり、ヨハン1世対ケルン大司教・ハインリッヒ4世という、ニーダーライン全域の支配権をめぐる大規模な戦争へと発展していったのだった。
戦いが長引くにつれて、ケルン大司教はケルン市民から愛想をつかされ、市民は大司教と決別することを決意する。そして、敵であるヨハン1世の軍に市の城門を開いたのだった。ケルン市民の応援を得たヨハン1世と大司教の戦いは、ケルンからライン川を数㎞下ったウォリンゲンへと移る。ここで世にいう、《ウォリンゲンの戦い》が行われ、ヨハン1世軍が勝利。ケルン大司教は囚われの身となるのだった。
戦いに敗れたケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクは、ヴッパ―城に幽閉され、多額の賠償金とともに、この地域の要塞を放棄するよう要求されたのだった。そしてケルン大司教区は、戦いに勝利したアドルフ4世の兄弟であるコンラートによって引き継がれた。
また、ケルン大司教との戦いに勝利したアドルフ4世は、ケルン司教領への対抗軸を設ける意図で、1288年8月14日にデュッセルドルフに市としての権利を付与した。同様にケルン近郊のミュールハイムもベルク伯爵から市の権利を与えられた。デュッセルドルフとミュールハイムの両市は、この地域の貿易と経済の中心地へと発展したが、その結果、ケルンとデュッセルドルフの都市間の競争は、頻繁に両者の緊張の原因となった。因みに、現在でもケルンとデュッセルドルフの両市は様々な点でライバル関係にあると言われるが、この一件がその嚆矢であると言われている。
そしてこの戦争のそもそもの理由であったリンブルク公国の継承問題はどうなったかというと、敗者ライナルド1世はリンブルフの継承権を放棄し、勝者ヨハン1世の出身であるブラバントが15世紀まで主権を握ることとなる。アドルフ4世は、ラインラントにおけるベルク伯爵家の権力を強化・拡大し、ケルン選帝侯の権力を抑える役割を果たした。ライン川の左岸にあったケルン選帝侯の城もこの時に破壊されたのだった。大司教の支配から離れたケルンは、1476年に正式に帝国自由都市となる。
この戦いの行方を決定した《ウォーリンゲンの戦い》については、この戦闘から500年を記念して、デュッセルドルフの旧市街に記念碑が作れられている。この記念碑から数メートル離れたところには、《側転小僧》の像も建っており、デュッセルドルフが市へと昇格した出来事を物語っている。
因みに、現在でもデュッセルドルフには、グラーフ・アドルフ通り(Glaf-Adolf Strasse)やグラーフ・アドフル広場(Glaf-Adolf Platz)という名前がある。グラーフというのは伯爵の意であるが、これらはこの戦いに勝利したベルク伯アドルフ4世に由来する。
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